清朝第10代粛親王善耆の第14王女
明治から昭和初期にかけて新聞や雑誌に掲載された男装の記事を紹介し、それぞれの背景を探る「断髪とパンツ」。今回は「男装の麗人」と称され、今なお語られる川島芳子の人物像と男装の経緯をたどる。
「男装の麗人」という言葉は、1932(昭和7)年9月から9ヶ月間にわたって『婦人公論』に連載された村松梢風の小説タイトルに由来する。そのモデルは清朝第10代粛親王善耆の第14王女、川島芳子である。
村松は当時芳子が交際していた田中隆吉少佐に依頼され、上海の芳子の家に2ヶ月滞在して書いたという。「男装の麗人」という表現は中央公論社社長の嶋中雄作と2人で考案したもので、それ以前には存在しなかった。連載中には誌上でモデル当てクイズが出され、外地も含め3万4026名の応募が押し寄せた。主題歌も作られ、単行本はベストセラーとなった。水谷八重子主演の舞台「男装の麗人」の成功で芳子の人気はさらに高まり、ラジオやレコード、映画出演へと拡大していった。
芳子の本名は愛新覺羅顯㺭(けんし)。1907(明治40)年、粛親王と第4側妃・張佳の間に生まれた14番目の王女である。親王には5人の妻と38人の子どもがおり、顯㺭は10人きょうだいの長女だった。
1911年の辛亥革命で清朝が崩壊すると、一家は信頼していた日本人浪人・川島浪速の庇護を受け、旅順に移り住む。幼い顯㺭は快活で勝気な少女で、兄にからかわれて泣いた後、自分の鼻水を兄の顔に塗って笑ったという逸話がある。泣いたかと思えば反撃して高笑いするとは、すでにアンビバレントな芳子の性格を暗示している。
ジャンヌ・ダルクに傾倒した少女時代
1915年、浪速との政治的な利害の一致もあり、顯㺭は浪速の養女として日本名「川島芳子」を名乗るようになる。東京・赤羽の広大な浪速邸から小学校に通ったが、そこではバンカラ男子のような振る舞いが目立つようになった。野太い声、ぶっきらぼうな話し方、実習生に「おい」と呼びかけ、男子が遊んでいたボールを拾って遠くに投げたりした。
一方、家では厳しい躾を受け、日舞や琴などを習い、リボンやおはじきを好む少女らしい面を見せた。これらは養父の浪速の趣味だったのかもしれない。
なお、自伝によればこの頃、『ジャンヌ・ダルク孤忠史譚』に強く影響を受け、ノートに「ジャンヌ・ダルク」と繰り返し書くほど傾倒したとある。実父の粛親王から「日本と支那の楔〈くさび〉、柱石たれ」と言われていた芳子は自身とジャンヌを重ねていった。
小学校卒業後は跡見女学校を経て、長野県松本市に移住し、松本高等女学校に聴講生として通う。ここでも型破りな行動が目立っていた。馬で校舎に乗り込んだり、雨で濡れた袴をみんなの前で脱いで乾かしたり、男子学生の学費のためにヌード写真を撮らせた。義侠心からとはいえ、芳子の大胆不敵さは級友たちの度肝を抜いた。
1922年に粛親王が崩御し、浪速と芳子は旅順に駆けつけた。すると1か月も前に実母も亡くなっていたことが判明。芳子は孤児になったという強い思いを抱く。
翌年日本に戻るも、国籍を理由に松本高女から復学を拒まれ、孤独感はさらに増した。
養父・浪速との関係
この時期、浪速の暴力や支配がエスカレートする。耳の遠くなった浪速は苛立ち、芳子に鋏を投げつけたり、じょうろで叩いたりすることもあったという。それでも芳子は浪速に従順に仕え、取材には仲睦まじい姿を見せていた。
そんな中、1925(大正14)年秋に芳子は突如髪を五分刈りにした。
きっかけは諸説あった。
右翼青年・森山英治による執拗なつきまとい騒動、松本歩兵第五十連隊の旗手・山家亨との恋愛報道、さらにはピストルによる自殺未遂など、芳子をめぐる数々の事件が、連日マスコミをにぎわせた。浪速の家には軍人や大陸浪人、右翼の若者たちが頻繁に出入りしており年頃の娘には危うい環境だった。しかも芳子は元王女である。復辟をちらつかせて近づこうとする者もいた。両親のいない芳子の立場は脆いものだった。そうした手紙や交友を快く思わない浪速との間で、彼女はしばしば板挟みにもなっていた。芳子は断髪の理由をマスコミに問われると、「うるさいことから逃れたかった」「父に迷惑をかけたくなかった」と繰り返し語っている。
しかし当時から、もっと根深い理由がまことしやかに囁かれていた。証言者は、兄の憲立と弟の憲東である。
彼らによれば、浪速は芳子に異様な執着を見せ、自分と粛家の間に智勇仁兼備の子をもうけたいと語ったという。また、浪速と芳子の寝室から芳子が泣きながら飛び出してきたという証言も残されている。小説『男装の麗人』では浪速の具体的な暴力や性暴力が描かれている。作者の村松梢風が芳子の家に滞在し、本人から直接話を聞いていたことを踏まえれば、その内容には一定の信憑性があるだろう。
芳子はこの関係に苦しみ、憲立に助けを求めた。憲立は彼女を北京に呼び寄せたが、その経緯についても芳子は、マスコミに対してこう語っている。
「父と私との間に何か醜関係でもあるかの様に一部の人から宣伝されましたので、父は(中略)世間から誤解を受けている際だから、いっそ北京の兄の所へ帰れと言われました」。だが芳子は「父の世話をしたい」として、その提案をはねつけたとも述べている(「女から......男になって考える事 私は悲しい二重人格者」より)。
「女装」という演出
浪速と芳子に関係があったことが本当であれば、男装も腑に落ちる。
女性として恋愛や結婚をすることは浪速に妨害されてしまう。それどころか女として見られ襲われることを意味する。かといって逃げようにも家はない。浪速は文字通り生命線であり、復辟という野望の点でも一致する。とすれば、男として振る舞うしか選択肢はないのである。芳子は言う。「だれが好き好んでこんな男女みたいな服装をして、それでいい気持になっているものですか。女が唯一の生命と頼んで大切にしている黒髪を切って捨て、あの美しいお化粧など見向きもしない、その心持は決して愉しいものではないのです」。
断髪以降、芳子は「芳麿」と名乗り、一人称は「僕」となり、詰襟やスーツ、中折れ帽、ロイド眼鏡といった完全な男装で生活するようになる。1926年の朝日新聞の記事には芳子とともに大連に行くために長野高等女学校を中退した少女のことを「これが僕の奥さん」と語る芳子の姿が紹介されている。どこまで本気かわからないが、男子としての自分を印象付けたいのだろう。
しかしそれからわずか1年後、芳子は一転して花嫁姿になる。蒙古族の軍人カンジュルジャップと政略結婚をさせられたのだ。この結婚は3年ほどで破綻し、上海駐在武官の田中隆吉少佐と出会い、満洲国建国に向けて暗躍していく。
その後の芳子は場面に応じて女装と男装を使い分けていく。
女性である芳子が女性の装いをする時はまさに「女装」という演出に見えた。浪速の古希の祝いで島田髷のカツラを被って振袖姿になったり、ダンスホールで艶やかなチャイナドレスをまとったりした。ジェンダーを行き来することは、王女と革命家、中国と日本という二つのアイデンティティーを持つ芳子の「生きる戦略」であり、同時に「語られる自分」の演出でもあった。
芳子のケースは今まで見てきた男装者とは環境も性質も違うが、これもまた大正末から昭和にかけて見られた男装者の一形態である。
参考文献
上坂冬子『男装の麗人 川島芳子伝』文春文庫、1988年
村松梢風『男装の麗人』中央公論社、1933年
村松梢風『七いろの人生』三笠書房、1958年
村松梢風 『燃える上海』駿河台書房、1953年
川島芳子『動乱の蔭に : 私の半生記』時代社、1940年
寺尾紗穂『評伝 川島芳子 男装のエトランゼ』文春新書、2008年
村松梢風「男装の麗人は生きている」『銀の耳飾』大日本雄弁会講談社、1957年
井上聰「村松友視と上海ー二つの『男装の麗人』ー」『解釈:国語・国文』(62)(688)解釈学会、2016年
加藤吾郎「男装の麗人 川島芳子ー清朝王姫の波乱の生涯ー」『風俗奇譚』3月号(第13巻第4号 通巻181号)文献資料刊行会、1972年
楳本捨三『アジアの女王』春陽堂、1963年
張先煜「マス・メディア上の『男装の麗人』川島芳子」『応用言語学研究:明海大学大学院応用言語学研究科紀要』(25)、2023年
蓮井冬華「男装の麗人・川島芳子の生涯」『長野国文』(16)、2008年
川島芳子 金璧輝「僕は祖國を愛す」婦人公論、18(9)、中央公論社、1933年
愛新覚羅憲立「川島芳子は何処にいる」『文藝春秋』1956(昭和31)年2月号
「奥さんを連れて良麿君が大連へ 長野高女を三年でよして 芳子嬢に走つた夏子さん 今度は背広服姿で」1926年10月21日付朝日新聞
川島芳子「女から......男になって考える事 私は悲しい二重人格者」『サンデー毎日』大阪毎日新聞社、1926年
1970年、兵庫県芦屋市生まれ。エディトリアルデザイナーを経て、明治大正昭和期のカルチャーや教科書に載らない女性を研究、執筆。著書に『20世紀 破天荒セレブ:ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝:莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)がある。なお、2011年に『純粋個人雑誌 趣味と実益』を創刊、第七號まで既刊。また、唄のユニット「2525稼業」のメンバーとしてオリジナル曲のほか、明治大正昭和の俗謡や国内外の民謡などを演奏している。