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八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」(上)

【連載第一回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

「創元」と「文體」

壬生町の会場には、宇野千代が自らの着物を使って派手な装丁をほどこし、宇野自身が所蔵している小林秀雄のナマ原稿の製本もたくさん展示されていた。題字を小林自身が書いているようなので、小林「公認」の自筆原稿である。北原・宇野夫妻が戦時中から小林と親しかったことは二人のエッセイと青山二郎のエッセイにたびたび書かれている。北原が特攻隊生き残りの青年に語りかける形式の「近代人」(「新潮」昭和22・3、『北原武夫文学全集』第四巻所収)という文章から引こう。

「いつか、戦争中だったが、小林秀雄のところでいろいろ茶碗だの壺だのを見せて貰ったとき、小林秀雄が言ってたよ、現代人というのは、こういうものでも、物を一分間とじっと見ていない。一分間というのは、君、長い時間だよ、と。僕もそう思う。考えるということが生きることだった時代が、昔はあった。その時代全体がそうだったかどうかは保証のかぎりではないが、確実にそういう生き方をした少数の人物がしっかりとささえていた時代はあった」

小林から手紙で、「君には未だ一個の茶碗が見えてゐなかつたのである」と説教された北原が、今度は青年たちに骨董談義をしているのがおかしいが、北原が小林に傾倒していたのは、北原が書いた文学評論を読むと歴然である。「近代人」の中でも、元特攻隊員に、「今度の戦争は、何度も言うようだけれど、日本人というものがどうしても遭遇し且つ甘受しなければならなかった苛酷な運命だったと僕は思っている。固くそう信じている」と小林譲りの信念を披瀝している。

 ここで北原武夫に立ち止まっているのは、北原・宇野夫妻が発行する雑誌「文體」が、敗戦後の小林秀雄にとって、「創元」と並ぶ重要な発表舞台になるからでもある。戦後の「文體」は四冊しか刊行されなかったが、毎号、小林の文章が巻頭を飾った。復刊号(昭和2212には、戦争中に執筆され未発表だった「梅原龍三郎」、第二号(昭和23・5)には「鉄齋」(「時事新報」紙発表の再録)、第三号(昭和2312には「ゴッホの手紙」の連載第一回、第四号(昭和24・7)には連載第二回と、三好達治との対談「文学と人生」が載った。まるで「創元」の別働隊といった趣きで、小林のもうひとつの発表舞台として用意された観がある。判型も「創元」と同じ、表紙デザインも「創元」と同じく青山二郎だ。「文體」には、宇野の「おはん」、大岡昇平の「野火」も連載された。

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