八月十五日以後、小林秀雄の「沈黙」と「戦後第一声」①

小林秀雄の戦争と平和
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

日米開戦のとき

 小林と北原・宇野との関係はこれくらいにして、手紙の文面をもう少し検討したい。「大戦の大詔を拝し」た昭和十六年(一九四一)十二月八日の小林自身の行動は「三つの放送」(「文藝春秋 現地報告」昭和17・1。編輯長は池島信平)という短文に書いている。日米開戦を知り、清々しい気持で鎌倉から上京、銀座の「文學界」編輯部のある文藝春秋社に行き、そこで「宣戦の御詔勅奉読の放送を拝聴」する。

「僕等は皆頭を垂れ、直立していた。眼頭は熱し、心は静かであった。畏多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるという自信が一番大きく強いのだ。(略)僕は、爽やかな気持で、そんな事を考えながら街を歩いた。//やがて、真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表が、僕を驚かした。僕は、こんな事を考えた。僕等は皆驚いているのだ。まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いているのだ」

 小林の十二月八日の反応は、「黙って事変に処した」国民の標準的な反応に見える。この日の報道に冷やかな反応を示す少数派は、文藝春秋の社内では永井龍男、池島信平などごく一部だった。「一国民」小林は圧倒的な多数派の中にいる。夕刻になって真珠湾の赫々たる戦果が発表されてから、小林らしい反応を示す。奇襲に成功した海軍の攻撃隊に「名人の至芸」を見て、驚嘆する。

 開戦から三年半たった敗戦当日に、「今度も僕には全く同じ事が起りました」とまで言えたかどうか。翌八月十六日に小林に会った大佛次郎は日記に、「小林も涙が出て困ったと話す。意外のことに啞然とせしは全般だったようである」と記した。高見順の日記では、十六日に小林と林房雄の二人だけは、昼間から酒を飲んで「酔っている」。小林に「希望と勇気」が湧いてくるのは、何日かたってからだったのではないか。

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