もう死んでもいいと思っていた
――大空さんがとても苦しまれた、その生い立ちについて教えてください。
物心ついた頃から両親の仲は悪く、僕が小学校5年生のとき、母が蒸発します。それから父と愛媛で暮らすのですが、もともと衝突することが多かった父との関係はさらに悪化し、暴力を振るわれることも度々でした。だんだんと心身のバランスを崩して、6年生になると学校に行けなくなってしまい......。食事を摂らず、空腹も感じなくなっていきました。そんなとき、家を訪ねてきた母方の祖母が病院に連れていってくれ、そのまま僕は入院することになりました。
もう父とは暮らせないと、中学校入学を機に、東京で再婚していた母と暮らすことになります。けれど母も義父も多忙で、家にはほとんど帰ってきません。いつもテーブルに千円札が置かれていたので、食事はそれを使って定食屋で食べていました。当時の僕には学校しか行くところがなかったので、学校にはきちんと行っていました。
中学卒業後は、自分の意思で1年間の留学プログラムのある高校に進学します。父方の祖母が僕にお金を遺してくれていたので、そのお金を学費にあてたのです。けれど、高校2年時の留学先を決める大切な面談に母親が現れず、大騒ぎになりました。学校側も「どうやらこの家はおかしいぞ」と気づき、「お前は家庭の温かさを知ったほうがいい」と、ニュージーランドの小さな村の家庭にホームステイさせてもらうことになったのです。このホストファミリーは本当に温かい家庭で、とても幸せな1年間を過ごすことができました。
帰国すると母は再婚相手と離婚していて、今度は母と2人の生活が始まります。そこはエレベーターのない、狭くて底冷えのするアパートでした。母には持病があり、精神的にも不安定で、刃物を持って暴れることもありました。母とは心理的な距離を置いていたので、一緒に住んでいても会話はほとんどなく、荒れる母をいなしながら生活していました。そんな母なので収入が少なく、高校3年時にはバイトを掛け持ちして生活費を賄うしかなかった。だから当時は、ほとんど高校に行けませんでした。家に帰れば母が荒れているし、学校に行けば"普通"を演じなければならない。とにかくしんどかった......。
ある日、バイトから疲れ果てて帰ってきた午前3時頃、担任の先生に「しんどい。もう学校をやめたい」とメールを送ってそのまま寝てしまったことがありました。まさに当時は、生きる苦しさが死ぬ怖さを上回っていて、もう死んでもいいと思っていました。するとその朝、僕を心配して先生がアパートの下に立っていたのです。あとで聞いたところ、母が学校に提出していた住所はデタラメなもので、そのために先生はうちにたどり着けず、以前僕から聞いていた情報からだいたいの場所を割り出して、街ゆく人に聞いて回って、家を探し当ててくれたそうです。
僕は「この人なら頼れるかもしれない」と、初めて人を信頼するという安心感を持つことができました。そして先生からは、「過去を悲観するな。今何ができるかを考えなさい」と諭されました。僕としては、毎日を必死に過ごしているだけでしたが、「みんな普通の高校生活を送っているのに、自分ばかりどうして」と、過去にとらわれていたのかもしれません。そういった経験をしたことで、自分のような問題を抱えている人が、確実に頼れる人にアクセスできる環境を作りたいと考えるようになります。そのためには大学に行かないといけない。それまでは考えてもいなかった、大学進学を決意することになったのです。
構成:長谷川あや
1998年愛媛県生まれ。2018年慶應義塾大学総合政策学部に入学し、現在も在学中。20年に「信頼できる人に確実にアクセスできる社会の実現」と「望まない孤独の根絶」を目指し、NPO法人「あなたのいばしょ」を設立。内閣官房孤独・孤立の実態把握に関する研究会構成員などを務める。