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大屋雄裕 新型コロナによって生じた個人の自由の制限について考える

大屋雄裕(慶應義塾大学教授)

法律による規制が基本のヨーロッパ

 ヨーロッパでは、マスク着用を義務付けたり、ロックダウンしたりする時には、基本的には法律を作ります。法律は自分たちの権利・義務を規定するものだから、書かれていない義務は引き受けないが、書かれた以上は従うしかない。そのため条文をめぐって議会で激しく議論が行われ、不備があれば行政訴訟が起き、裁判所の判決によっては法改正を迫られる。その一方で、法律による規制は、不要になればすぐ終わる。終わりがはっきりしています。

 これに対して、日本人は自由を法律で規制するという意識がもともと希薄なのかもしれません。各人に配慮を要請する「自粛要請」を行いました。この日本型自粛の場合、法律による規制ではないので明確な終わりが見えないという短所があります。

 また、権力を行使するからには、それなりの科学的な根拠が必要です。根拠がなければ違憲や違法という評価を受けるからです。しかし、日本ではそこも曖昧でした。なんとなく危なそうだから営業をやめてほしい、という要請をしたため、その妥当性を検証できないのは大きな問題です。

 ただ、私たち日本人は一人ひとりの行動がもたらす影響を考慮する、あるいは、他の人からどう見られているかを考慮することによって、相互の距離を取ることにそれなりに成功したとは言えると思います。

 京都大学の曽我部真裕教授は、そんな日本の立憲主義を「ゆるふわ立憲主義」と名付けました。

 立憲主義ですから、憲法があり、権利や人権は守られるし、それを通じて政府は統制を行います。しかし法律で規制するのではなく、政府が「みんな自粛してね」と言うと、国民は法律で強制されるぐらいなら「その前にちゃんとやろう」と考えて実行する。ゆる~く、ふわっとした空気が動いて実現してしまう。逆に言えば、日本では法律の解釈の幅もゆるふわで動いてしまう危うさがあります。

 日本は豊かで民族的一体性が高く、言語的な統一性も非常に強い状態が長く続いてきたために、これができるのだと思います。ただし、今後もそのままいけるのかどうかはわかりません。日本語を母語としない住民や、民族的出自が違う人たちが増えてきており、雰囲気に依存する「ゆるふわ立憲主義」が今後も続けられるのかは疑問です。

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