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大屋雄裕 新型コロナによって生じた個人の自由の制限について考える

大屋雄裕(慶應義塾大学教授)

リスクのない社会はあり得ない

 ニューサンスのように、人によって許容度が違う障害を避けるには、法的に基準を作る方法もありますが、日本では多くの場合、生活の空間が重ならないように当事者がコミュニケーションをとって調整してきました。まわりを見て気働きをし、迷惑にならないように自主的、自発的に行動してきたのです。

 ところが最近は、コミュニケーションや気働きによる抑制ではなく、危なそうなものや、誰かが嫌だと言うかもしれないものは、すべて社会から消してしまえばいいという発想が目立つようになってきました。トラブルになりそうなものをなくしてしまえば問題は生じないかもしれませんが、それは、あらゆる文化や科学技術の発展にとって自殺行為です。

 最初から万人を快適にするような表現はありません。多くの人を不愉快にしながらも、こういう表現もあるのではないか、こういう可能性もあるのではないかとチャレンジしていく中で、徐々に社会に認められながら広がっていくのです。

 技術も同様です。ファミコンが出てきた時は「子どもが家に閉じこもって遊んでばかりいる」と批判されましたし、スマートフォンは画面が小さくて使いにくいと言われました。そうした批判を乗り越えて、便利だ、快適だ、納得がいくと受け入れられたものが定着してきたわけです。

 たとえば、調理や暖房では、裸火は危ないから使わないほうがいいという方向で進化してきました。ガスレンジからIHヒーターへ、石油ストーブからオイルヒーターやエアコンへと進んでいます。それが社会を安全にしていることは事実ですし、お年寄りだけの家庭などはそのほうが安全というのもわかります。しかし、子どもが電気が止まった時にどうしたらよいかを知らずに育つのは危険ではないでしょうか。

 人間は痛い目を見ながら、どこまでが自分で乗り切れるリスクで、どこまで利益を追求するかというバランスを考えて成長していくものです。そのためには、リスクに直面し、時には痛い目も見なければいけません。もちろん、怪我をしたり死んだりしないようにするための何らかの統制は必要ですが。

 リスクの全くない社会を作ることは、長期的には社会のレジリエンスを低下させ、いざという時のリスクに対応できなくさせてしまいます。それでは電気が来なくなった途端に餓死してしまうような人間を作ることになりかねません。

 お酒はリラクゼーションにはいいかもしれませんが、飲み過ぎれば肝臓を悪くします。読書で目が悪くなることもあります。ある一定の豊かな価値を得ようと思えば、代償として引き受けるリスクは必ずあるはずです。リスクのない行為はありません。だからこそ、それぞれの行為にどのくらいのリスクがあるのかをきちんと考え、誰にでもわかるように表示する。それを踏まえて、一人ひとりが自分はどのくらいのリスクなら受け入れられるのか、それによって何を達成するかを考えていくことこそが、自由で豊かな社会だと思います。

 ところが、現在の日本社会は、リスクやデメリットをはっきり示したうえで人々の自己決定を促すのではなく、説明もなしに、リスクそのものを社会から抹消しようとしているように見えます。それは、個々人をリスク計算のできる立派な大人としてではなく、保護すべき子どもとして扱っているのと同じです。しかし、社会全員が「子ども」になったら、誰がリスクの正しい評価をするのでしょうか。

 たばこに関しても、分煙の義務付けや喫煙可の表示を強制することは、人々の選択の可能性を豊かにするという意味でよいと思います。しかし、禁煙の義務付けは、むしろ各人の選択の可能性を奪ってしまうことです。個々人の判断能力を信頼し、その判断能力が適切に行使できるシステムこそ、法が支えるべきだと思います。

 社会の進歩の端緒を開くのは、基本的には少数者です。新しい世界を切り開く人は、みんなが考えないことを考えるわけですから、最初は少数者のはずです。だから、少数だということだけで非難されたり無視されたりしない社会にしなければなりません。その一方で、互いの行為から生じる影響を受忍限度内にどう収めるかも考えなければいけない。そのバランスをどう取るかが重要だと思います。

構成:戸矢晃一

中央公論 2022年9月号
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大屋雄裕(慶應義塾大学教授)
〔おおやたけひろ〕
1974年福井県生まれ。東京大学法学部卒業。名古屋大学教授などを経て、現職。専門は法哲学。著書に『自由とは何か――監視社会と「個人」の消滅』『自由か、さもなくば幸福か?――21世紀の〈あり得べき社会〉を問う』がある。
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