なぜ戦略が最後につくられたか
日本の安全保障政策は、三つの文書によって体系化されている。
第一に、「国家安全保障戦略」(国家安保戦略)である。三文書のうち最上位に位置づけられるもので、外交・防衛政策を中心とした国家安全保障の基本方針である。
第二に、「防衛計画の大綱」(防衛大綱)である。国家安保戦略を踏まえて、防衛力の在り方や保持すべき防衛力の水準を規定する。
一番下位にある第三の文書が、「中期防衛力整備計画」(中期防)だ。こちらは、防衛大綱が定める防衛力の目標水準の達成のために、今後5年間の防衛経費の総額や主要装備の整備数量を示す。そして最終的には、年度予算のなかで事業として具体化される。
以上が、安保三文書にもとづく政策体系である。これら文書の存在は、健全な「政軍」関係の構築にとって、また対外的な宣言政策としても重要な意味を持つ。
ただ、こう言われると、まるで安保三文書ははじめから「三点セット」として存在していたかのように思えてくるが、実はそうではない。もともとはこのうち防衛大綱しか存在せず、三文書のなかで真ん中の文書が先にできたことになる。防衛大綱が三木武夫政権期の1976年に最初にできてから9年後の85年、中曽根康弘政権期に中期防がつくられた。国家安保戦略の策定にいたっては、最初の中期防策定からさらに28年後、第2次安倍政権期の2013年になってからであった。全体を見わたすはずの文書が、もっとも遅くつくられたのだ。
たしかに、これらに先立って岸信介政権期の1957年に「国防の基本方針」が策定されていたが、抽象的かつ総花的な内容で、実質的に安全保障政策の基本文書と言えるのは、同年に策定された「第一次防衛力整備計画」(一次防)以降の5ヵ年防衛力整備計画(一次防のみ3ヵ年計画)だった。5ヵ年計画は、四次防終了後、76年に防衛大綱に移行する。
日本は敗戦にともない、連合国によって武装解除された。だが米ソ冷戦が始まると、日本は日米安全保障条約を結びつつ、漸進的な再軍備を進めていく。基地を提供することで米国に守ってもらうという大枠があったので、「戦略」不在のままでも、5ヵ年計画、防衛大綱、そして80年代におけるソ連の脅威の増大に対応して防衛大綱を補完するためにつくられた中期防を通じ、防衛力整備に専心することですんでいたわけである。逆に、下手に「戦略」など打ち出せば、吉田が講和会議でも打ち消そうとしたような「軍国主義復活」のレッテルを貼られかねなかった。
しかし、近年の中国の軍事的台頭や北朝鮮の核能力の向上、さらには米国の対外関与の後退という長期的趨勢のなかで、防衛力整備を中心に「受け身」の姿勢を維持することの限界が認識されるようになった。必要とされたのは、日本の国益を長期的視点から見定め、国際社会のなかで進むべき針路を、政府全体として決めることであった。こうして戦後日本初の国家安保戦略が策定される。
ここで求められたのは、日本から諸外国へ積極的に働きかけていくことで、日本や世界にとって望ましい国際秩序をつくり出そうとする態度である。それが、国家安保戦略が掲げた「国際協調主義に基づく積極的平和主義」という理念であり、安倍政権がリードした「自由で開かれたインド太平洋」(FOIP)構想であった。
このように、時系列的にはある意味で奇妙な安保三文書成立をめぐる経緯を追うことによって、逆に日本の安全保障政策の本質が見えてくると言える。