(『中央公論』2023年2月号より抜粋)
- 私が大学の教員になるまで
- エンジニア不足を解消したい
- 新大学は五つのコース
私が大学の教員になるまで
大学創設は、私が歩んできたこれまでの人生と深い関係があります。私は、早稲田大学理工学部在学中にアスキーを創立(後に社長)。ビル・ゲイツとの親交を深めて米国マイクロソフト本社で副社長とボードメンバーも務めました。
会社経営が一段落した30歳の頃、私は大学院に行こうと考えました。というのも、政府の審議会委員に選ばれた際に履歴書を出したら「大学中退なら高卒と履歴書を書き直してください」と役所の事務局から連絡があったのです。あのときは顔が真っ赤になるほど恥ずかしかったです。
しかし、訪れた母校早稲田大学の事務局では、「あなたは大学中退なので大学院の受験資格はありません。8年間在籍して除籍になっているので大学にも戻れません」と言われました。世界的なコンピュータエンジニアリングの仕事をしてきたのになぜだ? 大学から家まで泣きながら帰ったのを憶えています。
ではどうする。そこで、当時東京工業大学助教授だった、知り合いの広瀬茂男先生を訪ねて「大学に戻りたい」と相談すると、彼は窮状を見かねて学部長に紹介してくれました。学部長は「あなたの経歴なら大学に戻るよりもうちで講師をしたほうがいい。10年教えたら、博士号も取れるでしょう」と。涙がたくさん出ました。嬉しくて。こうして一転、東工大で非常勤講師として「マルチメディア概論」を教えることになったのです。
さらに、東工大で教え始めてから数年して工学院大学の大学院の研究生になりました。平日は社長業があったので、ゴルフをやめて土日を勉強に充てました。そして教授会で大学卒業の認定をもらい、1999年に「音声や映像を圧縮する技術があれば、インターネットの速度が上がらなくてもインターネット上で通信や放送が可能になる」というテーマで情報学の博士号を取得したのです。10年かかりました。
博士号は理科系では大学の世界の通行証みたいなものです。博士号がないと教授になれません。
その後、アスキーの業績不振、CSKへの身売りなどを経て、44歳ですべての仕事を辞めたあと、私が新たな仕事に選んだのは、大学で教えることでした。米国マサチューセッツ工科大学(MIT)の客員教授を4年務め、帰国して国際連合大学、国際大学、尚美学園大学などで教員を続けました。
尚美学園大学では、学科長も務めていたのですが、60歳を前に考えました。このまま学科長を続け、学長になるのが自分の望みなのか......。その頃、学内政治に疲れきっていて、「自分はエンジニアとしての最後の可能性を試さないまま70歳になっていいのか。いや試してみたい」と自問自答するようになりました。