(『中央公論』2023年6月号より抜粋)
- 「タワマン文学」とは何か
- サラリーマンの一つの到達点
- タワマンは「格差社会」の縮図
「タワマン文学」とは何か
「タワマン文学」と呼ばれているものの原型は、不動産業界の人たちがTwitterで発信していた「タワマンの住民あるある」だと思います。「高層階は気圧が低くて、米がうまく炊けない」とか「世帯年収が1700万円あっても、子どもの塾代で大半が消える」とか、真偽不明ではありますが、面白おかしく書かれていた。
私は、不動産業界や受験業界に興味があったので、最初はそれをチェックして楽しんでいただけだったのですが、2020年ごろ、コロナ禍で在宅勤務が増えて時間ができたことをきっかけに、自分でもTwitterで発信し始めたんです。それがすごくバズり、フォロワーも増えたので楽しくなって続けていたら、他の人の同様の発信とともに「#タワマン文学」として括られるようになり、2022年に入って出版社から書籍化のお話をいただきました。それで、それまでのTwitterでの発信をベースにしつつ、小説という形にまとめたのが『息が詰まるようなこの場所で』(KADOKAWA)です。
小説の主な登場人物は、私と同世代のアラフォーで、湾岸エリア(東京都中央区月島・勝どき、江東区豊洲・東雲(しののめ)・有明、港区台場など、東京湾沿岸の埋め立て地)のタワーマンション(以下「湾岸のタワマン」)の低層階に住む銀行員の健太と、妻で同じ銀行の一般職のさやか、同じタワマンの高層階に住む医師の徹と専業主婦の妻の綾子、その子どもたちです。
執筆にあたっては、実際にタワマンに住むサラリーマンや医師、不動産関係者など、多くの人に話を聞きました。そのリアリティに共感を覚えていただいているのか、あるいは羨んでいたタワマンの住民たちに、実は悩みがあり、暮らし向きも思っていたほど豊かでないことを知って溜飲が下がるのかわかりませんが、書籍の売れゆきは好調です。
「タワマン文学なんか文学じゃない」と言う人もいますが、私自身も最初は、文学性を追求しようなんて全く思ってもいませんでした。特にTwitterで書いていたころは「バズらせる」ために、「高層階と低層階は行くスーパーまで違う」とか「高層階の医師の子どもと比べて低層階のサラリーマンの子どもは成績もパッとしない」といった、タワマンの住人を揶揄する、読んだら腹を立てるような話や書き方をわざとしていましたから。
でも小説という形にしたことで、知らず知らずのうちにある種の文学性が出てきたという面はありそうです。年配の方からは、「(1980年に発表され、単行本がミリオンセラーになった)田中康夫さんの『なんとなく、クリスタル』を思い出した」と言われましたが、何か共通するものがあるのかもしれません。