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葉上太郎 JR只見線復活から1年――座れないほど混雑する理由

葉上太郎(地方自治ジャーナリスト)

巨額の工費負担に上下分離方式

 同年の福島県は、3月に起きた東日本大震災と原発事故で大混乱に陥っていた。太平洋岸の浜通り、新幹線が通る中通り、そして会津と分けられる同県の3地域のうち、浜通りと中通りには壊滅に近い打撃を受けた地区がかなりあった。

 残る会津も同年7月末、「新潟・福島豪雨」に見舞われる。福島県内で被害が大きかったのは奥会津で、只見町では4日間で711・5㎜もの雨が降った。

 発電用の水に満ちた只見川にこれだけの豪雨が流れ込んだのだから、ただでは済まなかった。国道橋や住家が流され、只見線も寸断された。特に被害が酷かったのは橋梁が3本も落ちるなどした会津川口―只見間の27・6㎞だった。

 金山(かねやま)町と只見町にまたがる同区間は、奥会津で最も雪深く、過疎化が著しいエリアだ。特に金山町は23年11月時点の人口が1721人しかなく、65歳以上の高齢化率は県内最高の61・2%に及ぶ。14歳以下の年少人口割合は県内最低の4・6%だ。年少人口割合が5・0%を切った13年には、町が「少子化非常事態宣言」を出したほどだった。ただでさえ追い詰められていた地区の被災だけに、ダメージは深かった。

 JR東日本は同区間の復旧工事に着手しなかった。全線が赤字となっている只見線でも、特に乗客が少なく、被災前年の平均通過人員(1日1㎞当たりの乗客数)がわずか49人だったからだ。被災を機にバスに転換しようとしていた。

 自治体側の考えは違った。なかでも県は「只見線を復旧しなければ会津の復興はない」という強い決意でJRとの協議に臨んだ。

 ただ、要求ばかりしたわけではなかった。JRは当初、復旧工費を約85億円と試算したが、県と会津の全17市町村は「足しにしてもらおう」と4分の1に当たる約21億円を基金に積んだ。会津の市町村は藩政時代からのつながりが深く、「会津はひとつ」が合い言葉だ。沿線であるなしにかかわらず資金を出し合った。

 県内外の6万人以上からは1億円を超える寄付が集まった。

 JRは最終的な復旧工費を約81億円と見積もった。が、3分の1の約27億円しか負担しないとしたため、残る3分の2は地元が負担を迫られた。これには国会が動き、議員立法で鉄道軌道整備法を改正して、国が工費の3分の1を支出することにした。結果として県と17市町村の負担は3分の1で済んだ。

 JRは他にも条件を付けた。鉄路や駅舎などの鉄道施設を県に無償で譲渡し、維持費用を地元が負担する上下分離方式を持ち出したのだ。自治体側は受け入れざるを得なかった。

 こうして復旧工事が始まりはしたものの、どれくらいの人が乗りに来てくれるか分からなかった。

 というのも、通常時は1日に3往復しか走らないダイヤだったからだ。JRは被災前のダイヤに戻すのを条件にしていたのである。

「これでは乗りたくても乗れない」と話す沿線住民がほとんどだった。「通院に使ったら、帰りが困る」と話す人もいた。「使えもしない路線に巨額をつぎ込まなくていい」という意見も少なからずあった。

 なのに、なぜ自治体は復活にこだわったのか。

 過疎化が著しい沿線の生き残り策を、只見線を軸とした観光に賭けたのである。このため、工費や維持費は「負担」ではなく、「投資」だと発想転換した。

 つまり、地元住民は乗れなくても、只見線があれば観光客が来てくれる。これによる経済効果や地域振興こそ只見線復活の最大の目的だった。

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