ローカル化するヨーロッパ
現在、ロシアや中国、インド、イスラームの諸国、ラテンアメリカなど、ヨーロッパの近代社会の原則に対する強い対抗勢力が台頭し、さまざまなかたちでこれまでの「原則」を揺るがしている。
例えば、ウクライナ戦争を始めたロシアのプーチン大統領の思想的な背景には、モスクワ出身の政治学者で哲学者のアレクサンドル・ドゥーギンらの国家主義的な思想があるとされている。しかし、すでに1920~30年代のユーラシア主義(ロシアは歴史的、地政学的に独自の遺産と権益を持ち、他の国々とは違う発展をするというロシア中心主義)でも、ヨーロッパを批判していた。
ロシアにしても、中国をはじめ上記の国々にしても、公共的なものと私的なものを分けるというヨーロッパ的な発想を基本的には持っていない。イスラーム社会などでは、むしろ私的な宗教的領域と公的な政治を一致させることが原則になっている。こうした国々の勢力は今後さらに強くなっていくと思われる。つまり、ヨーロッパ的な発想の一極的な支配は、徐々に弱体化していく。彼らの原則がどこまで生き残るかさえ疑わしい。
逆にいえば、公共的なものと私的なものを分けるという発想は、ヨーロッパのローカルな基準になりつつある。これまではそれをユニバーサルな基準なのだと強弁してきただけともいえるのだ。ヨーロッパは今後、対抗勢力との関係のなかで、ローカル化していくだろう。
また、20世紀には、欧米のリベラル・デモクラシー、独伊のファシズム、ソ連のコミュニズムの三つの政治思想があったが、ファシズムもコミュニズムも消えていった。その結果、対抗勢力がないままに、80年代あたりからは一極覇権主義的なリベラル・デモクラシーが支配的になった。21世紀になると、それも揺らぎはじめている。
20世紀の初頭に、ドイツの哲学者オスヴァルト・シュペングラーは、当時の非ヨーロッパ勢力であったアメリカやロシアの台頭を受けて、ヨーロッパ中心史観・文明観を批判した『西洋の没落』という本を書いている。
現在から考えてみると、これは予言的な内容だったように思われる。現代のヨーロッパは、ヨーロッパのなかの変化だけでなく、ヨーロッパそのものをどう位置づけるかについて、非常に大きな転換期に来ているように見えるからだ。
日本は近代以降、ヨーロッパを中心とする考え方を根底から疑うことはなかった。しかし、それが揺らいできている今、その考え方が本当に正しかったのかと考えなければならない時代になってきているのではないだろうか。その意味で、哲学が必要とされる時代なのである。
私は、さまざまなテーマについて高校生とディスカッションする講座を持っている。例えば、イスラーム社会における少女婚(イスラーム法では9歳前後で一人前と見なされ、結婚が可能となる国がある)について高校生に質問してみると、みんな「おかしい」「あんなおじさんと子どもが結婚するなんてかわいそうだ」などと反応する。しかし、前近代の日本にもそういう例はあるし、西洋的な基準で「おかしい」といってしまってよいのだろうか。
私たちは子どものときから社会的に正当化された考え方を身につけていく。それに対して、違ったものの見方の可能性もあるということを、いかに学んでいくか。その意味で、哲学は役に立つと私は思う。それこそ、哲学が営々と取り組んできたことだからである。
(『中央公論』2024年8月号より)
構成:戸矢晃一 撮影:米田育広
1954年福岡県生まれ。九州大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修了。博士(文学)。専門は西洋近現代哲学。九州大学助手、玉川大学文学部教授などを歴任。『フランス現代思想史』『ポストモダンの思想的根拠』『いま世界の哲学者が考えていること』など著書多数。