- 多数派のなかの少数者
- 近代社会の基本原則
- 誰もが健康で正しい行いをする社会
- 「役に立たない」哲学の役割
- ローカル化するヨーロッパ
多数派のなかの少数者
私は昔から煙草を吸わないが、大学のゼミでは教授をはじめ大学院生もみな喫煙者だった。部屋が煙でもうもうとして、休憩時間に窓を開けたときにだけ息がつけるような状態。私は煙草社会の少数派だった。
その後、嫌煙運動が広がり、今ではほとんどの場所で喫煙は禁止されている。では私が多数派になったかというと、そうは思わない。喫煙者に課されている厳しい制約に違和感を覚えるからだ。嫌煙運動は構わないが、吸いたい人が吸えなくなるのはまずいのではないか。かつての私は人数としての少数派だったが、今では多数派のなかにあって感覚的少数派になったのだ。
ジル・ドゥルーズは『カフカ』のなかで、「偉大なもの、革命的なものはただマイナーなものだけである」と書いている。このマイナーは、多数派に対する少数派ではなく、多数派のなかに少数派として存在するという意味である。
フランツ・カフカはチェコに生まれたユダヤ人だが、チェコ語もユダヤの言葉も使わず、多数派のドイツ語を使いながら、ドイツ語自体を解体に導くような作品を書いた。多数派のなかにあって同化せず、内側から多数派を解体していく。
私は煙草社会では少数派だったが、それは本当のマイナーではなかった。みなが吸わなくなった今になって、私は多数派のなかに少数派として存在するという、ドゥルーズのマイナーの概念が、腑に落ちた気がしている。逆にいえば、煙草社会のなかでマイナーであると思っていたころは、「真のマイナー」ではなかったのだ。
ここでは煙草を例に挙げてきたが、多数派による過剰な制約は、社会から「遊び」を失わせるような感じがしてならない。