そもそもなぜ頼朝は平家を滅ぼしたのか
そうしたかたちで築き上げられたものが武士の主従制。この関係が全国の武士と頼朝との間に設定されることによって、頼朝は武家社会のトップ、将軍として君臨することが可能になる。
しかし、本来この主従制は、必ずしも頼朝とだけ結ぶ必要はない。たとえば平清盛と結んでもいい。だからこそ頼朝は、自分だけがトップに立つために平家を滅ぼしたわけです。
平家だけではなく、関東においては源氏の名門として自分の対抗馬になり得る常陸(ひたち。今の茨城県)の佐竹を滅ぼし、また、どうも自分に対して従属する姿勢を見せない上野(こうずけ。今の群馬県)の新田をたたく。実際、このあと新田は鎌倉時代を通じて冷やめしを食わされることになります。
自分と立場が変わることができる存在を滅ぼすか、屈服させるかして、全国の武士との間に主従制を設定していく。そうした事業を頼朝は行っていたのです。
その事業の一つとして、武士が官職をもらうときには必ず頼朝を通すことになるという状況を頼朝は作ろうとした。ところが最初に自分の弟が背き、大夫判官の官職をもらってしまったのですから......。後編ではこうした事情について詳しく解説していこうと思います。
※本稿は、『「失敗」の日本史』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
本郷和人
出版業界で続く「日本史」ブーム。そのブームのきっかけの一つが、東京大学史料編纂所・本郷和人先生が手掛けた著書の数々なのは間違いない。今回その本郷先生が「日本史×失敗」をテーマにした新刊を刊行! 元寇の原因は鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学びや「もし成功していたら」という”if”を展開。失敗の中にこそ、豊かな「学び」はある!