小松由佳 土地に根差して生きるとは 日本人女性初のK2登頂者の今【著者に聞く】
─本書は、小松さんが二十三歳で成功したK2登頂から、取材のためにシリアに五年間通い続けたこと、そしてシリア人のラドワンさんと結婚し二人の息子と共に日本で暮らすまでの半生が書かれます。書籍のタイトル『人間の土地へ』に込めた思いとは何でしょうか。
この本は、私自身を含めた土地に暮らす人々がテーマです。私の半生の記録でもあるのだけれど、私と夫の物語、そしてシリアという土地を舞台にした、その土地を巡る物語で、「人間が生きる土地」というイメージを込めて書きました。
─小松さんはヒマラヤ登山をした際に、麓で風土と共に生きるポーター達の姿に惹かれ、それ以来、遊牧民や山岳民を訪ねて写真に収め始めます。その最中、後に夫となるイスラム教徒のラドワンさんと出会いました。ご自身もイスラム教に改宗されていますね。
イスラム教徒が異教徒の女性を娶る場合、女性の改宗が義務づけられます。そのため、仏教徒だった私はイスラム教へ改宗しました。イスラム教は教義の建前はすごく厳しいですが、実践においては比較的寛容です。私は今、できることから、少しずつ実践している状態ですね。
─イスラムでは男性優位で女性は家庭を守るべきとされます。大きく違う文化を持つラドワンさんとの生活で苦労したことはありますか。
アラブの男性は、家事と育児はノータッチが一般的です。その分、外で労働し、稼いでくる。うちの夫も育児には手は出さず、それでいながら「子育てで子供達に大事なことを伝えていない」と口出しはしてくる。夫いわく、アラブの子であれば、沙漠で何日も一緒に旅をさせたり、ラクダの世話をさせたり、その土地で生きる感覚を与える。それが大事なのだと。今、日本に住み、子供が保育園と家の往復しかしていないことに不満があるようです。
夫自身、来日した当初は日本社会に馴染めず、二年ほどノイローゼになってしまいました。仕事はどこも一週間と持たず、二〇社くらい転々としました。日本で大事にされる、仕事の効率性や完璧さという感覚が分からなかったようです。アラビア語には、「ラーハ」という言葉があり、ゆとりや休息を指します。具体的には家族や友人と過ごす穏やかな団欒の時間を言い、良い人生とは、「ラーハ」をたくさん持つ人生とされます。ラドワンもそんな環境で育ちました。
今は日本に馴染みつつありますが、一日の平均労働時間が四時間ほどで、月収も一桁になってしまい、幼い子供を抱えながら、私も長時間働かねばならず、なかなか大変です。
─一方、結婚して良かったこと、幸せを感じることは何ですか。
言葉ではない部分に人間的な学びを感じます。実は、夫と言葉があまり通じないこともあります。その分、非言語のコミュニケーションで会話している気がしますね。彼はかつて、沙漠で生活してきました。地図には沙漠としか書かれていない土地でも、そこにどんな丘や谷があるか、どういう物語があるかが一族にずっと伝えられてきて、それを彼も記憶しています。さらには、砂の大きさや色から、どこの沙漠か識別したりできる。自分の経験や感覚で土地をとらえることができるそんな彼と日々向き合っていると、まるで昔の人間が持っていたような感覚を生活の中で得ることがありますね。
日本の文化の枠にはまっていない自由な感覚も魅力です。例えば、野心やキャリア、名誉に全く興味がありません。遊牧民的なものかもしれませんが、「今」を味わうことに重点を置く感覚などです。
─今後の活動方針について教えて下さい。
ライフワークである、シリア難民の取材や記録を続けたいです。シリアの人々が新しい土地にどう根付いていくのか、彼らがシリアで築いたルーツをどう保つのか、長い時間をかけて見つめていきたいと思っています。
〔『中央公論』2021年1月号より〕
1982年秋田県生まれ。フォトグラファー。高校時代から国内外の山に登る。2006年、世界第2位の高峰K2(8611m/パキスタン)に、日本人女性として初めて登頂(女性としては世界で8人目)。植村直己冒険賞受賞、秋田県県民栄誉章受章。旅をするなかで知り合ったシリア人男性と結婚。12年からシリア内戦・難民をテーマに撮影を続ける。著書に『オリーブの丘へ続くシリアの小道でふるさとを失った難民たちの日々』がある。