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河合香織 女性初の東大教授は、覚悟と背中合わせの自由を生きた

中根千枝の遺したもの
河合香織(ノンフィクション作家)

 最後に千枝さんにお会いしたのは2020年2月、彼女の引っ越しの作業の日だった。山口百恵・三浦友和夫妻が新婚時に住んだことで知られる高輪のマンションに、千枝さんは長く母と2人で暮らし、そして母が亡くなってからは一人暮らしをしてきた。

 その部屋を手放すため、どの荷物を残して、何を処分するのかを仕分ける作業を、私も手伝わせてもらった。床には数多の表彰盾や記念品が転がっていたが、千枝さんはもうすべていらないと即決した。仕事机から資料、皿に至るまで、ほとんどの品を処分した。ただし、少しだけ躊躇したように見えたのは、「洗濯機はどうする?」と親族から聞かれた時だ。結局、処分することになったが、それはもう自分では洗濯をしないことを意味していた。すでにこの2年前から、千枝さんは高齢者施設に入居していた。

 きっかけは2018年の猛暑の夏だった。千枝さんは一人マンションの部屋で倒れ、数ヵ月間の入院を余儀なくされた。退院後も、一人で暮らすことは難しいという医師の判断で、高齢者施設に入居することになった。

 施設では嗜好品の持ち込みが制限されていた。それまではナイトキャップとしてジョニーウォーカーをストレートで飲みながら、たばこをふかし、明け方まで仕事をして昼近くに起きる生活を続けてきた。そんな千枝さんにとって、制約による不自由は受け入れがたいことだった。最初は施設でもウイスキーを飲んでいたが、注意されてやめざるを得なかった。それでも、好きなことをできるだけ手放そうとはしなかった。施設のクローゼットはデパートから届いた新しい服でいっぱいだった。イタリアに留学していたため、同国製の服を好んだ。どこへ着ていくわけではないし、コロナで外出どころか、親族との面会も禁止となった。それでも、心地よい上質なものに囲まれる生活を好んだ。

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