数多ある候補のうち、終の住処となった施設を選んだのは、若かりし頃に住んでいた津田塾専門学校(現・津田塾大学)の学生寮に、施設の机やベッドの配置が似ていたことが決め手だったらしい。津田塾大学には最後まで世話になったと言い、後進のために何かしたいと言っていた。住処といえば、千枝さんの親族に聞き、驚いた話がある。終戦後の1947年、津田塾専門学校を卒業後、女性に門戸を開いた東京大学に千枝さんは入学したが、まだ戦後の混乱期でどれだけ探しても大学近くの下宿が空いていなかった。だが、早くしないと授業が始まってしまう。千枝さんは赤門近くの下宿屋に、ここに住まわせてくださいと頼み込んだ。「部屋は空いていない」と断られると、「ここでいいですから」と言い、玄関を指したという。若い女性が玄関で寝泊まりするなんて異様だとは思わなかったのだろうか。
千枝さんは弁護士であった父の仕事の関係で、幼少期を中国の北京で過ごした。そこで男性だ女性だということにはこだわらない、細かなことは気にしないおおらかな人格が形成されたという。研究者になってからは、1953年に象しか交通手段のないインド奥地に調査に行ったが、ベッドがなければ大木を二つに割って、平らな方をベッドにして寝た。女性一人で人食いトラのいるジャングルにも行った。女だから、男だからと制限をつけずに、一人で自由に心の赴くまま研究したかったという。
「女性一人で危なくなかったか」と千枝さんは何度も尋ねられたそうだが、危ない目といえば首狩り族が千枝さんの首に好奇心を寄せたくらいのものだと笑い飛ばした。
千枝さんは、「女性初」であることにはまったく意味がないと語っていた。「女性初」であることは通過点でしかないから、何の栄誉でもないという。東京大学には女性卒業生の同窓会「さつき会」があるが、誘われても千枝さんは一度も参加しなかった。女性だけで集まることに意味を感じなかったからだと話していた。そして、女性を優遇して組織の役職者の女性比率を上げることに千枝さんは懐疑的だった。そうではなく、女性が実力をつけて、男性だから女性だからということに関係なく、比率を上げていってほしい。そのためには、学問が必要だと力説していた。
ただし社会環境によるマイナスは女性の方が大きいことは認めていた。結婚や出産などで生活が変わらないうちに、情熱を持って何かに打ち込むことが大切であるという。「雑音」に気を取られ、女性だからここまででいいという限界を、女性自身が設けている場合があるのではないかと投げかけた。イギリスやアメリカで大学院生を指導した経験から、外国の女性たちの方が個人を取り巻く障害に対する強さがあったと語る。そして、日本では年齢の高い女性を尊重しない風潮があるとも言った。「一番いいのは若いきれいな女の子ね」。日本社会はかわいいことが優先され、女性の知性を本気になって考えていないのだと嘆いた。
千枝さんの覚悟とは何だったのだろうか。「自由に研究に没頭したいから結婚は考えなかったのですね」と尋ねると、「そう簡単にも言えないわよ。いい人がいたらって思うこともありました」と言葉少なに答えて笑った。