(『中央公論』2022年7月号より抜粋)
今年3月、映画評論家の佐藤忠男が逝去した。91歳だった。1950年代から映画評論活動を旺盛に行い、日本映画、アジア映画の発展に寄与した。著書は共著も含めると150冊に上る。同月、95年に創刊された雑誌『映画秘宝』が2度目の休刊となった。アクション映画やホラー映画を積極的に紹介した独特の編集方針が人気を集めたが、今後はウェブなどでの展開を探るという。軽いタッチの文章が中心でありつつ、長文の映画評論にアクセスしやすい媒体でもあった。
佐藤の死と『映画秘宝』の休刊。二つの出来事には何の関連性もないが、2022年現在の「映画評論」のあり方を考えたとき、どこか象徴的に思えてしまう。
まず、映画評論とは何か(ここでは「評論」と「批評」は同じものとする)。イギリス文学者で映画評論も行う北村紗衣(さえ)の説明がわかりやすいだろう。
「作品の中から一見したところではよくわからないかもしれない隠れた意味を引き出すこと(解釈)と、その作品の位置づけや質がどういうものなのかを判断すること(価値づけ)が、批評が果たすべき大きな役割としてよくあげられるものだと思います」(『批評の教室――チョウのように読み、ハチのように書く』)
一つの映画作品を取り上げ、制作過程、作品の背景などを踏まえた上で、作者の意図をあぶり出し、何らかの解釈を導き出すこと。そしてその作品が歴史の中でどのような位置づけにあるのか、作品の質がどうなのかを示すこと。それらが映画評論の役割だ。
たとえば、黒澤明監督の『七人の侍』(54年)がジョン・フォード作品をはじめとする西部劇から大きな影響を受けており、侍たちに守られていた農民に実は黒澤が嫌悪に近い感情を抱いていたこと、アラン・ドロン主演『太陽がいっぱい』(60年)が実は同性愛を描いた作品だったこと、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』(77年)の主人公ルーク・スカイウォーカーの父親との相克にルーカス自身の境遇が反映されていることなどが、数々の評論によって読み解かれている。
映画評論は作品についての解釈を記すこともあれば、監督や俳優の個性について記すことも、技術について記すこともある。そして何より大事なことについて、北村は次のように説明している。「批評に触れた人が、読む前よりも対象とする作品や作者についてもっと興味深いと思ってくれればそれは良い批評だ、ということです」(前掲書)。一度観た作品でも、評論を読めば作品に対する解像度が上がり、二度三度と観たくなる。それが優れた評論というわけだ。