知的営みとして
日本で映画評論が一つのジャンルとして確立するのは大正時代の後半から昭和初期にかけてだが、映画評論が盛んになって多くの人が目にしだしたのは、言論の自由が認められ、映画が大衆娯楽の中心的存在となった戦後からである。大衆誌が刊行されはじめた50年代中頃から評論活動が活発になった。
当初は評者の好悪を書き連ねただけの印象批評や、左翼的なイデオロギーにもとづいた批評が多かったが、60年代から70年代にかけては、19年に創刊された『キネマ旬報』のほか、小川徹が編集長を務めた『映画芸術』、佐藤忠男や佐藤重臣らが編集長だった『映画評論』などが、作家や作品についての長文の映画評論を掲載するようになる。
『現代日本映画論大系』を編集した映画評論家・波多野哲朗(てつろう)によると、「映画批評の最盛期というのは、日本の映画産業が1958年の最盛期を過ぎて、衰退の一途をたどるその後の20年間だった」という(日本映画学会会報63号「波多野哲朗先生インタビュー」)。
この時期は30年代生まれの映画評論家である佐藤、田山力哉(りきや)、水野晴郎(はるお)(水野和夫)、山根貞男、山田宏一、蓮實重彦(はすみしげひこ)、石上三登志(いしがみみつとし)らが執筆したほか、大島渚、吉田喜重(よししげ)、篠田正浩、増村保造(ますむらやすぞう)ら映画監督たち、花田清輝、吉本隆明、安部公房ら文学者たちも加わって旺盛な評論活動を行った。
当時について波多野はこのように総括している。「極端に言えば、どんな領域にあろうと知識人であるかぎりは、映画を語ることを避けては通れない、といった雰囲気があった。それは映画がまぎれもなく知の第一線にあったことを証しています」(前掲インタビュー)。