名物解説者の存在
60年代から70年代にかけて、映画を語る、知的な営みとしての映画評論は最盛期を迎えたが、それゆえ映画館に詰めかけていた観客との間にはまだ距離があった。映画評論家が大衆の間でメジャーな存在になっていったのが、70年代から80年代にかけてである。雑誌ではなく、テレビに登場する映画評論家たちが多くの人たちに認知されていった。きっかけはゴールデンタイムに放送されていた映画番組である。
テレビ朝日(当時NETテレビ)で66年に始まった「土曜洋画劇場」(後の「日曜洋画劇場」)を皮切りに、テレビ東京(当時東京12チャンネル)が68年に「木曜洋画劇場」、TBSがいくつかの映画番組を経て69年に「月曜ロードショー」(後の「水曜ロードショー」)、フジテレビが71年に「ゴールデン洋画劇場」、日本テレビが72年に「水曜ロードショー」(後の「金曜ロードショー」)をスタートさせる。ほかにも各局に数多くの映画番組が存在した。娯楽の王様の座は映画からテレビに移りつつあったが、まだまだ映画(洋画)はテレビの花形プログラムだった。
テレビの映画番組に欠かせなかったのが名物解説者たちだ。「日曜洋画劇場」は戦前から映画会社の宣伝マンとして活躍し、終戦直後から映画評論を続けてきた淀川長治(よどがわながはる)を起用。「月曜ロードショー」は荻昌弘、「水曜ロードショー」は水野を起用した。「木曜洋画劇場」は作曲家の芥川也寸志(やすし)から数人を経て82年に映画評論家の河野基比古(こうのともひこ)、87年に木村奈保子に交代、「ゴールデン洋画劇場」はタレントの前田武彦から73年に俳優の高島忠夫に交代している。
彼らは本編開始前と終了後に軽妙な語り口で映画の見所、作品の持つ意味合いや時代背景、主演俳優たちのプロフィールを伝え、視聴者の関心を惹きつつ内容の理解を深めさせる役割を担っていた。特に本職の映画評論家である淀川、荻、水野は、人気タレント並みの知名度を誇る一方で、映画雑誌への長文の映画評論の寄稿や映画関連書の刊行を続けていた。
彼らが出演するテレビの映画番組で放送されるのは、知名度のある俳優が主演する西部劇やラブロマンス、戦争映画などのアクション大作が多かった。さらに映画について詳しく知りたいと思った視聴者が映画雑誌や映画関連書に手を伸ばせば、古(いにしえ)のヨーロッパの映画監督や俳優などへのマニアックな映画愛を熱っぽく語る映画評論家としての彼らと再び出会えるというサイクルが出来上がっていた。
こうしてテレビの映画番組と解説者たちは新たな映画ファンを生み出していった。78年生まれの映画評論家・モルモット吉田は、「映画評論家によるテレビでの映画解説に幼いころから親しんでいたことが後に映画評論を読む上でプラスになったのは、初めて手に取った映画専門誌でも彼らの名前が目印になったからである」と振り返っている(『映画評論・入門! 観る、読む、書く』)。