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不評だった映画のタイトル、『対話と構造』から『私のはなし 部落のはなし』に変えるまで。「部落問題」を描くために必要だったこととは?

満若勇咲監督×瀬尾夏美さん 『「私のはなし 部落のはなし」の話』刊行記念トークセッション
取材文・撮影=朝山実

「当事者対非当事者」の構図がつくる境界

瀬尾 いまお聞きしていて、思い出したことがあります。震災が起きたとき、「被災者」という言葉が新聞やメディアで使われ、世間にも広まっていったために、被災をしたひとびとは「被災者」になっていきました。「被災者」として語ることを求められたり、その像を演じたりしていくうちに、「自分は被災者だ」と受け入れていくんですね。「被災地」で暮らしながら、そのことをとても窮屈に感じてきました。

満若 わかります。

瀬尾 実際に会って親しくなってお話を聞けば、一人ひとりの体験も感情も個別的であることがわかる。すると、わたしの中にも存在していた「被災者」というイメージが覆っていく。そういうことを思い出しながら、いまの話を聞いていました。

あと、そうしたイメージに括られることに対して、当事者が「私は、そうではない」と発していくことが重要である一方で、それを繰り返し語ることで、新たな境界が生まれていくことにもなりかねない。そこをどうしていくのか? という問題もあるわけですよね。そこで、この映画で撮影者がわかりやすく自身の立場を表明していないことがカギになるのかなと。

満若 (うなずく)

瀬尾 満若さん自身も、その土地を見て、ひとに会い、考えながら構成していったわけですよね。企画や撮影の最初から結論が用意されているわけではなかった。自分なりの、「私」なりの答えを探していくその軌跡が映っていることが重要で、観たひとはその道程に巻き込まれながら、それぞれ考える。観客を信頼し、委ねているということが、「対話」の構成とともに大事だと思いました。

満若 たしかに「当事者」という言葉を多用すると、「当事者対非当事者」という構図に陥ってしまいますし。でも現実的な問題として、ぼくが当事者性をもっているのかと考えていったときに、もってはいない。それゆえに、できることがあるだろう、と。
たとえば、そこに住んでいる、ルーツをもっているというつながり方と、ルーツをもたないつながり方がある。アプローチの仕方として何層もの関係性の網の目みたいなものとして「部落問題」を捉えてみようとしたんですね。そうして、この映画を観た人も、そういう網の目の中に自分はいるんだということを意識してほしい。そう考えたんですね。

瀬尾 (うなずく)

満若 当事者のひとが「自分は出身者である」とカミングアウトしたとき、相手の反応にとても傷ついたという話を聞きます。相手が発する「ああ、そういうの気にしないから」とか、「自分は関係ないので」という返答に。つまり「関係ない」なんてことは、ない。あるんです。それをどういうふうに観る人に伝えられるか。そこがこの映画の課題でした。

われわれが、いま生きている社会じたい、さまざまな人間関係の網の目の中にある。震災にしてもそうですが。そういった観点から問題を捉えていったほうが能動的というか、違った視点に立てるだろうと、この映画をつくりました。

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