不評だった映画のタイトル、『対話と構造』から『私のはなし 部落のはなし』に変えるまで。「部落問題」を描くために必要だったこととは?
声を上げている人たちに対してのイメージ
瀬尾 このあいだ、沖縄のハンセン病の資料館でのトークに呼ばれたんですね。
これ、とても変な話なんですが。わたしはまず、沖縄に行くのが初めてで、「沖縄」について不勉強だったのもあって、ものすごく緊張していたんです。ですが、そこで東北の震災後の状況や、沖縄を訪れてみて感じた類似点などを話したら、観客の中には運動をしてきたひともおられたんですが、とてもあたたかい反応で受け入れてくださって、ほっとしたんです。いっぽうで、わたしは運動をしている人たちに対して固定観念をもっていたなあ、と気が付いて。彼らは自分が向き合っている課題に一生懸命で、他のことに興味はないんじゃないかとか、自分が不勉強であることに対して怒られてしまうんじゃないかとか、勝手に思っていたんです。
わたしは、「被災者」と括られた人たちがいかに個別的な存在であるかを感じてきて、その偏見を払拭したいと思ってきたのに、それでも、運動している人たち、声を上げている人たちに対して偏見を持っていた。それに、「被災地」では、「いろんなことを知らないで関わってはいけない」なんてことはない、と伝える立場だったのに、他の場面ではそれが逆転する。
この映画の中でも「人権センター、こわい」と言ったりする場面(語り手の男性が二十歳の同窓会を企画する中で、地域の会館の部屋を借りるのはどうかと提案したところ、同級生からそういう声を聞きショックだったと語る)がありましたけれど、それって対象のことをよく知らなくて、解像度が低い場合に起きがちなことじゃないかなと。それでも、時間をかけて関わっていくなかで、ときにはお叱りを受けたりすることがあっても、そこにいるのは人と人だから、お互いの無知を赦し合いながら、解決していくことは可能だと信じたい。
「部落」という言葉が入ったものに、わたしはこれまで触れる機会がなかったんですが、この映画を観たときに、わたしもいつかこの人たちに会って話をしてみたいなと思えました。なんだかこの感じってすごくイマっぽい映画なんじゃないかなと。そう言われたりしません?
満若 どうでしょう? つい先日「さわやかな映画」と言われたりはしましたが...。
瀬尾 さわやかですか。
満若 部落問題が難しいのは、周辺にいて日常的に関わっている人のほうが、より強固に差別意識をもっているという現象があって。単に関われば解決する、というわけではなく、だからといって、関わらないでいいというわけでもないところなんですよね。