IT革命を夢見た国家事業「インパク」とは何だったのか
そもそもインパクとは何か?
インパクは、二〇〇一年に日本政府(内閣総理大臣官房新千年紀記念行事推進室)主導で実施されたオンライン・イベントである。厳密には前年の大晦日に開幕しており、二〇〇一年大晦日まで、なんとまるまる一年間開催された。
この行事は、小渕恵三内閣のもと、経済企画庁長官・堺屋太一が新千年紀記念行事として考案したことにはじまる。二〇〇〇年四月に小渕が病に倒れ、森喜朗が首相となったため、開会の前後にインパクの「顔」として露出していたのは森だった。その後、会期中に森内閣は総辞職し、小泉純一郎が後を引き継いでいる。
インパクの目的を一言で言えば、日本のインターネット人口の拡大だ。二〇〇一年に内閣IT戦略本部が策定したe-Japan戦略が、情報通信のインフラ面の整備に力を入れ、高速インターネットの普及を目指したのに対し、インパクはたのしい・おもしろいコンテンツを用意することでネットの普及を狙った。今日、この時期のIT関連政策をめぐってはインフラ面の取り組みに言及されることが多いが、当時はコンテンツの発展もITの普及とそれによる社会の変化、いわゆる「IT革命」に必要なものと位置づけられていた[※1]。
イベントの形式としては、政府、国際機関、自治体、民間企業・団体、個人が制作したウェブ・サイトをパビリオンに見立て、それらを政府が用意したオンラインのメイン会場に集約して展示するものだった。オンライン会場に立ち並ぶパビリオンを目指して、多くの客が来場(アクセス)すると見込んだのである。
パビリオンには「特定テーマ枠」と「自由参加枠」の二種があった。特定テーマ枠は政府、国際機関、地方自治体、民間企業・団体が、あらかじめ決まったテーマを掲げて展示する枠である。地方自治体のサイトは六四、民間の企業・団体が一三三だった。海外からもシンガポール・中国政府や、スミソニアン動物園などが参加している。自由参加枠は特定のテーマを決めずに参加可能な枠で、個人や企業あわせて二九八の出展があった。これらを合計すると最終的に五〇七のパビリオンが出展した。これらのパビリオンは、巨大なアーカイブになるとされてもいた。
このイベントの展開は、ウェブに限定されていたわけではない。開催前から開催中にかけて、著名タレントを起用した広告を新聞や雑誌に掲出し、やはりタレントを起用したコミカルなテレビCMも数本放映している(森喜朗が出演したバージョンもある)。開会式は三部構成となっており、第一部は沖縄にて、開催宣言や芸能の披露を含む式典を行った。沖縄が会場に選ばれたのは、「日本の中で最も日の入りの遅い沖縄」で、二〇〇〇年=二十世紀最後の日没を見届け、新しい時代のスタートにつなげるためであった。第二部は兵庫でカウントダウンと花火大会を実施し、第三部は北海道・納沙布岬、富士山、京都、沖縄県・与那国など全国七ヵ所から、初日の出の中継映像をネット配信した。開会式の様子の一部はネットだけでなく、テレビでも放映された。一月には加山又造が原画を描いた記念切手も発行された。公式ガイドブック[※2]はポップな装丁ながら三〇〇頁を超える大作となった。さらに、パソコンなどの機材を積み込んだ車を用意し、全国四七都道府県すべてを巡ってインパクを紹介する「インパク体験キャラバン」なるイベントを、一月から九月まで実施している。マス・メディアも関与し、事前の告知を経て全国規模で展開する、メディア・イベントの性格も持っていたのだ。
振り返るとなかなか大規模なイベントだったインパクだが、肝心の会場(サイト)は問題を抱えていた。開会式をネット中継したことをはじめ、インパクは映像メディアを多用し、ウェブ・サイトにもアニメーションを使うなどしてコンテンツをアピールしようとした。しかし、政府は同時期にインターネットの通信インフラに関わる制度整備を急ピッチで進めていた。裏返せば、まだ国内の通信環境に難があったわけだ。自宅のパソコンからインターネットにアクセスする方法として、大容量通信が可能なブロードバンド回線を用いていた世帯は二〇〇〇年の時点で六・九%。総務省が「ブロードバンド元年」と位置づけた二〇〇一年も、率だけ見れば一四・九%にとどまる。本格的な普及は二〇〇〇年代半ばを待たなければならない(総務省『平成23年版情報通信白書』)。インパクのウェブ・サイトは、当時の一般的なネット環境で閲覧するには、とにかく重すぎて、コンテンツを十分にたのしめなかった。
たのしいイベントを通してネットを普及することを目標に掲げたインパクは、インターネットの普及に貢献したのかどうか。筆者が知る限り閉幕後に細かい調査が行われた様子はないため、量的に示すことは難しいが、日本におけるインターネット普及の過程を調査した研究で、インパクの名前を見かけたことはない。以下の当時の反応からしても、(贔屓目に見ても)あまり貢献したとは言えないだろう。