IT革命を夢見た国家事業「インパク」とは何だったのか
政治的な場として
通信環境の問題もあってか、インパクの評判は芳しくなかった。現在デジタル改革担当大臣を務めている平井卓也は当時、「もう皆さんお忘れになったかもわかりませんが、昨年の十二月スタートしたインパク」が、「百億の金をつぎ込ん」だのに、うまくいっていない、と指摘していた(衆議院予算委員会、二〇〇一年二月二十二日)。テレビ批評で知られたナンシー関は、インパクのCMを皮肉ったエッセイのなかで、「やる必要などどこにもない、誰も求めていない、『え、まだやってんの!?』『いつまでやってんだよ』『いいかげんにしろ』」と、行事そのものについてもコケにしている(『何はさておき』)。評論家の山形浩生も、「4カ月がすぎ、もう話題にすらならない」と突き放した(『朝日新聞』二〇〇一年五月十九日朝刊)。
だが、インパクに対する冷笑的な視線が、見えにくくしてしまった部分があるのも確かだ。当時寄せられていた批判は、「金の無駄遣いである」「一体何なのかよくわからない」という点を指摘したものである。具体的なプランニング・プロセスや構想に詳しく触れたうえでの論評は、意外にもあまりない。
インパクのサイトはすでに消滅しており、ネット上に保存されている過去データの復元にも限度がある[※3]。それでも可能な範囲で地道に見ていくと、単にネット普及を狙い、たのしそうなイベントを画策してスベったという整理には収まらないインパクの特徴が見えてくる。ここで注目したいのは、インパクが日本をいかに定義・提示するかという非常に政治的な活動を展開する場でもあった点だ。もちろん、行事の全体像を把握するには、参加者がどう体験したのかという側面も重要だが、インパクの場合、そもそも何物だったのかがあまり共有されていない。そこで、ここではインパク主催サイドの動向に焦点をあて、彼らがインパクないしはインターネットに与えた意味を検討していこう。以下、主に「新千年紀記念行事懇話会」(インパクの有識者会議)の資料をもとに見ていく。
まず行事名に従って、博覧会との関係を見てみよう。インパクが博覧会の形式を採用したことは、その名の通り自明である。しかし、どんな意味でどの程度博覧会であろうとしたのかという点は自明ではない。
インパクは国際博覧会条約に基づくもの(いわゆる万博)ではなく、予算も万博と比べれば文字通り桁が違う。ただ、構想の初期段階まで辿ると、万博、あるいはオリンピックのような大イベントにしていくことをそれなりに本気で思い描いていたことがわかる。インターネット「博覧会」という行事名を掲げ、ウェブ・サイトを「パビリオン」と呼びかえたことは、単なる適当なネーミングのようでいて、そうでもないのである。
例えば、インパクは結果的に一度きりで終了しているものの、当初は万博やオリンピックと同様、数年に一度、各国で開催することを予定していた。万博は一八五一年にロンドンで、近代オリンピックは一八九六年にアテネでスタートした。その後、世界各国で繰り返し開催されることで、「伝統」となり、「正統性」を獲得し、二十世紀を象徴する行事になっていった。これと同じようにインパクも各国持ち回りで繰り返し開催される行事となることを目指した。二十一世紀の情報時代を規定していくイベントのはじまりの場所として、日本を位置づけようとしていたのだ。
推進サイドは国際博覧会委員会やオリンピック委員会へのインパク参加要請もほのめかしているし、行事の全体像から細かな部分にいたるまで、万博やオリンピックは、インパクの方向性を示すモデルとして繰り返し参照された。荒唐無稽にも思えるが、そこには一定のリアリティがあったのだろう。
[註]
[※1]厳密にはそこに国民のITリテラシー向上を加えた三つが、政府の考えるIT革命の三本柱だった。
[※2]『インターネット博覧会--インパク公式ガイド』(講談社)。
[※3]一部の図書館にDVD-ROM『Internet fair 2001 Japan インパク--未来社会への胎動』が所蔵されているが、ごく一部のパビリオンが保存されているのみで、やはり全体像を摑むのは難しい。さらに、図書館によっては(再生環境の問題で)すでにDVD-ROMが再生できなくなってきている。
(『中央公論』2021年6月号より一部抜粋)
1986年栃木県生まれ。大阪市立大学大学院文学研究科後期博士課程修了。博士(文学)。京都精華大学非常勤講師、大阪市立大学都市文化研究センター研究員などを経て現職。専門はメディア文化論、音楽研究。