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ラーム・エマニュエル 駐日アメリカ大使インタビュー「中露の強権は見過ごせない――私の使命感と家族の歴史」

ラーム・エマニュエル(駐日アメリカ大使)

父方の家族はオデーサ出身

 加えて、私は、ウクライナとは何世代にもわたる家族の歴史でつながっています。

 父方の家族は、ポグロム(19世紀末から20世紀初めまで続いたユダヤ人虐殺)のため、ウクライナのオデーサから(イスラエル建国前の)パレスチナに逃げました。

 真偽のほどはわかりませんが、一族に伝わる歴史によると、私の祖父母はエルサレムにユダヤ人として初めて薬局を開いたそうです。その後、テルアビブなどにも店を開いたといいますが、今はもう残っていません。

 父はイスラエル建国の地下活動に参加しました。イルグン(ユダヤ人武装組織)で働いた後、スイスの医大で学び、イスラエルに戻って中東戦争を戦いました。その後、アメリカに移住したのです。

 母方の家族はウクライナの隣国、モルドバの出身です。祖父は10代前半で、会ったことのなかった叔父を頼ってアメリカ・シカゴにやって来ました。祖父は東ヨーロッパ特有の大きな男で、私と同じ一族とは思えません。トラックやタクシーの運転手として働きました。ある金曜の夜、シカゴで開かれたダンスパーティーで、祖母と出会って結ばれました。

 父は移住後はシカゴに住みました。シカゴ市内のユダヤ人病院で看護師をしていた母と出会って結婚しました。

 シカゴにはウクライナ出身者が多く住む「ウクライナ村」と呼ばれる地域がありました。私がシカゴ市長だった時、当時のウクライナ総領事が訪ねてきたことがあります。「見せたいものがある。広い部屋が必要だ」と言うので、記者室に連れていくと、彼は15フィート(約4・6メートル)にも及ぶ長い巻物を広げました。ウクライナでは地域ごとにある教会が住民の戸籍の記録を持っていて、350年ぐらい前まで遡ることができます。私はウクライナ語を読むのは得意ではありませんが、私の家系は300年ぐらい遡ることができ、薬学や医学に関わる職業に就いてきたことがわかりました。

 アメリカにはいわゆる「スピン・ドクター」(政党・政治家の情報発信を担当する人)という言葉があります。そういう意味では、私もドクターになりました。体を診るドクターではなく、政治を見るドクターですが。

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