カマラ・ハリスが米国初の女性大統領になるための条件
※本稿は、手嶋龍一・佐藤優『菅政権と米中危機』(中公新書ラクレ)の一部を抜粋・再編集したものです。
アメリカの政治で、副大統領ほど不思議な存在はない
手嶋 民主党のランニングメイト、カマラ・ハリス副大統領候補が、今度の選挙戦でどんな役割を果たしたか考えてみましょう。これまでの大統領選挙でも、副大統領候補に誰を選ぶかは大きな話題になってきました。しかし、副大統領候補の人選が大統領選挙の行方を決める決定打になったかと問われれば、答えは明らかに「ノー」でした。
佐藤 いうまでもありませんが、アメリカの副大統領は、あくまで大統領あってのものですからね。
手嶋 ただ、時の大統領候補が、冴えない副大統領候補やスキャンダラスな副大統領を選んでしまった場合は、この経験則は当てはまりません。近くは第41代、つまりパパ・ブッシュ大統領のケースです。すでにこの名前は忘れ去られて久しいのですが、ダン・クェイル副大統領がそうです。再選の足を明らかに引っぱった。ニクソン大統領も副大統領の人選を誤り、途中で更迭を余儀なくされています。
佐藤 副大統領が政権で大きな影響力を振るったケースとしては、チェイニー副大統領がいます。ただ、このケースも選挙戦そのものの行方を決めたわけではありませんでしたね。
手嶋 アメリカの政治で、副大統領ほど不思議な存在はない。歴代の政権をホワイトハウスで取材した経験からいって、つくづくそう思います。大統領の身に万一のことがあれば、直ちに跡を継ぎ、平時には上院の議長も務めます。上院議員の賛否が同数となれば、副大統領の一票が法案の成否を決める。ホワイトハウスとは別にマサチューセッツ通りに広大な副大統領公邸を構え、ワシントン政界に絶大な影響力を誇っているように見える。ただ、現実の政治でどれほどの影響力を振るうことができるか。そのすべては、時の大統領といかなる関係を築きあげているか、その一点にかかっているのです。まさしくその名の通り「大統領制」なのです。
佐藤 その点では私が見てきたクレムリンも同じですね。首相は確かにいますが、メディアから「皇帝」と呼ばれるプーチン大統領が、最終決断は下してきました。ただし、外から見えているほどには、独裁的ではありませんよ。様々な利益集団のバランスの上に立って、主要なステークホルダーの意向を慎重に見極めて、舵取りをするタイプといっていい。
手嶋 キューバにソ連製の核ミサイルが密かに持ち込まれ、危機の13日間の幕があがった時のことでした。ケネディ大統領は、ホワイトハウスにEXCOMM緊急執行委員会を招集しました。殺気立つ空気のなか、補佐官のひとりが「あっ、副大統領に声をかけ忘れていた」と気づき、慌てて連絡したという。この有名なエピソードは、ケネディ政権に在って副大統領がいかに軽い存在だったかを物語っています。この人こそ、ダラスで暗殺されたケネディに代わって大統領となったリンドン・ジョンソンです。
豊富な議員歴をもつジョー・バイデン氏は、ホワイトハウスにあって「忘れられた副大統領」を幾人も見てきたのでしょう。バラク・オバマ氏から副大統領のポストを打診された時には「すべての重要会議に招かれるなら」とこれを条件に受諾しています。
民主党のバイデン大統領候補は、副大統領候補にカマラ・ハリス上院議員(55歳)を選んだのですが、これまでの副大統領候補とは重みがまったく異なっていました。その理由は三つです。まず、第一は、ホワイトハウスに入るバイデン氏が大統領になれば78歳という史上最高齢であり、任期半ばで大統領職を引き継ぐ可能性がある。第二は、バイデン氏の後継にはハリス氏が最有力でしょう。そして第三は、いま挙げた二つの理由から、現職大統領を凌ぐような役割を演じざるを得ないはずです。
「蓮の女」は大輪の花を咲かせることができるか
佐藤 カマラ・ハリス副大統領は、現時点では、アメリカ初の女性大統領に最も近い地点に立っていると言っていいですね。でも、その前途には、多くの試練が待ち構えていると思います。彼女は、史上初めての非白人系の副大統領です。小さな時に両親が離婚していますが、父親はジャマイカからの移民で、スタンフォード大学の経済学者。母親はインドから来た、タミル系の医学研究者です。
手嶋 いま佐藤さんは正確に「非白人系の」と表現しましたね。ハリス副大統領自身は、自らをアメリカン、つまりアメリカ系市民と名乗っています。「はじめての女性黒人副大統領」と呼んでいるメディアもありますが正確ではありません。ここはアメリカという国の本質にかかわる大切なところです。
佐藤 アメリカ合衆国は、「白人の移民」と「奴隷としてやってきた黒人」からなる国だと説明されます。黒人が白人の警察官によって死亡させられ、全米を揺るがした事件も、まさしく、こうしたアメリカという国の成り立ちに源を発しています。
手嶋 バラク・オバマ大統領は、肌の色は黒いのですが、奴隷としてアメリカ大陸に売られてきた黒人にルーツはもっていません。父親はケニアから留学生としてやってきたいわばエリートでした。ですから、移民の系譜に連なっています。オバマ大統領は、ハーバード大学のロースクールを卒業した後、シカゴの黒人の最貧地帯に社会運動家として赴き、後天的に「黒人になった」と自ら言っているのは、そうしたファミリー・ヒストリーのゆえです。
佐藤 カマラ・ハリス副大統領の場合も、奴隷としてアメリカにやってきた黒人の子孫ではない。オバマ・ファミリーと同様に知的な家庭に生まれた「移民」の系譜に属しているといっていい。人種問題で大きく揺れている超大国アメリカはいま真っ二つに切り裂かれています。バイデン大統領がハリス氏を副大統領候補に選んだ時「この国、女の子たち、特に黒人やヒスパニックの子は、今朝起きたらまったく違う自分になったように見えただろう」と述べたのは印象的でした。彼女は、まさしく人種のサラダボウルといわれる二十一世紀のアメリカを体現するような存在です。この国を一つにまとめあげる潜在力があるはずです。しかし、それは、政策策定の力などではなく、人々を惹きつけてやまない人間力が備わっているか否かにかかっています。
手嶋 ロナルド・レーガン大統領という人が、現代アメリカを代表する歴史家たちから「二十世紀のもっともすぐれた大統領」のひとりと認められているのも、そうしたアメリカ国民を一つにまとめあげた人間的魅力にありました。
佐藤 「蓮の女」というサンスクリット語の名をもつカマラが、トランプ大統領によって引き裂かれてしまったアメリカを再び一つにまとめあげ、大輪の花を咲かせることができるか。本書のテーマである「米中対立」の行方も左右することになるでしょう。
手嶋 その通りです。レーガン大統領は、アメリカのデモクラシーに揺るぎない自信を持ち続けた人で、その信念のゆえに、あの冷たい戦争を終わらせる推進役になったのですから。
手嶋龍一/佐藤優
菅新政権の外交マシーンが動き出した。烈しい米大統領選を経て米国の対中姿勢は、一段と厳しさを増している。菅政権は、日米同盟を基軸に据えて、「習近平の中国」と対話をと目論んでいる。だが、北京は安倍政権のキングメーカーにして対中宥和派、二階俊博幹事長を通じて日米同盟に楔を打ち込もうと布石を打ちつつある。菅総理は、安倍辞任の空白を埋めて、緊迫の東アジアに戦略上の安定を創りだせるのか。知られざる「菅機関」の内実を明らかにしつつ、菅政権の前途に立ちはだかる懸案を読み解いていく。
外交ジャーナリスト・作家。9・11テロにNHKワシントン支局長として遭遇。ハーバード大学国際問題研究所フェローを経て2005年にNHKより独立し、インテリジェンス小説『ウルトラ・ダラー』を発表しベストセラーに。近著『汝の名はスパイ、裏切り者、あるいは詐欺師』のほか、佐藤優氏との共著『インテリジェンスの最強テキスト』など著書多数。
◆佐藤 優〔さとう・まさる〕
作家・元外務省主任分析官。1960年東京都生まれ。英国の陸軍語学学校でロシア語を学び、在ロシア日本大使館に勤務。2002年、背任と偽計業務妨害容疑で逮捕、起訴され、09年6月、執行猶予付き有罪確定。13年6月、執行猶予期間満了。『国家の罠』『自壊する帝国』『修羅場の極意』『ケンカの流儀』『嫉妬と自己愛』『独裁の宴』など。