「不活性の島」日本よ、どこへ行く?
近頃の欧米メディアには、日本を見下した論調が目立つ。たとえばアメリカの『タイム』誌は、日本を「不活性の島」と呼んでいる。
それも無理はない。あきらかに日本は、一種の国民病をわずらっている。将来に対する悲観論と、機能不全に陥ったかのような民主主義政治への不信感が、ともに高まっている。いまや日本は、三度目の「失われた一〇年」に入りつつある。世界第二位の経済大国の座を中国に奪われかけている。多くの社会問題が出現しているにもかかわらず、政府は打つ手を失っている。一九八〇年代末に最高潮を迎えた「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の幻想は崩れ、絶望に姿を変えた。ズキズキ痛む、気が遠くなるほど重い病に打ちひしがれ、日本は衰退の一途をたどっている、という気分が蔓延している。
日本人の欠点は我慢し過ぎることかもしれない。だが、その日本国民が、この状況を変えて未来への希望をもたらすことができない政治エリート層に対して、ますますフラストレーションを募らせている。その結果、日本の有権者は短気で移り気になり、浮動票の大移動が発生している。最近三回の国政選挙で有権者は、無能な与党を劇的な敗北に追いやった。昨年の衆院選挙で民主党は地滑り的な勝利をおさめた。だが有権者は、同党が掲げた変革を信じていたわけではない。各種の世論調査は、多くの有権者が、同党の主要な公約を支持していないことを示唆していた。ようするに有権者は、信用を失った自民党と、無能な「お坊ちゃん」首相たちに、ダメを出したのである。
そして有権者は、民主党の鳩山前首相もまた、首相の器に成長することがとうとうできなかった無能な「お坊ちゃん」だと判定した。過去の政治を刷新する「リセット・ボタン」を大胆に押すどころか、鳩山首相と武骨な小沢幹事長のコンビは、相も変わらぬ金がらみのスキャンダルにはまり込んだ。そして鳩山氏は、普天間問題に関して、シェークスピア劇のハムレットさながらに逡巡を続け、最後には、悲劇を茶番劇に変えてしまったのである。
政治家の質が低い
日本の政治は、いったいどこが間違っているのだろう?
まず挙げられるのは、政治家の資質の低さと、九〇年代以降の政治スキャンダルの連鎖と、効果の上がらない経済活性化政策により、政治への信頼性の危機が生み出されたことだ。政府は、まさに自らの無能と無成果によって、国民の信頼を失ったのである。国民は、二〇〇六年以降、カラオケの歌手交代のように首相が次々と五人も登場し、指導力の弱さを見せつけたことにイライラしている。党利党略にかまけて、死活的に重要な課題への取り組みは後回しにする。それはまるで氷山に衝突しそうなタイタニック号の甲板で、デッキチェアを並べ替えているようなものである。民主党代表選への小沢氏の立候補は、当人にとっては快挙かもしれないが、それ以外に意義があるとは思えない。
国民が求めているのは、どの政治家が提案するものよりも、はるかに劇的で深遠な改革である。財政赤字が拡大する中で、税金、年金、医療の決定的な改革が待たれている。人口減少の危機への対応も、その場しのぎの措置に頼って後手に回り、将来への不安を取り除くには程遠い。これは移民政策も同様である。安定した生活の二本柱である家族と雇用は、家族を取り巻く規範の変化と、雇用を脅かす危険の高まりという荒波にさらされているが、政府の対策はおざなりでしかない。
アメリカとの同盟関係にも摩擦が見られる。緊張の絶えない東アジア地域において、安全を確保しつつ、より対等な関係をどう構築するのか。日本は、まさに同盟の運営手腕を問われている。だが、この日本の針路を決める重要な責務にふさわしい人材は、まったくいないように見える。菅首相は、場合に応じて協力する「臨機応変」方式を約束しているが、これが示唆するものは、さらに腰の重い中途半端な措置と、一貫した視野の欠如である。一方、小沢氏が権力を握れば、待っているのは政治的な手練手管と、更なる国民の幻滅だ。
欧米諸国の在日大使館の関係者やジャーナリストたちは、しばしば日本の政治家の水準の低さに困惑を示す。アメリカの国会議事堂は頭脳明晰なインテリであふれている、などと言うつもりはないが、日本には怠惰で愚かな政治家が多い、という認識が存在するのもまた事実である。
官僚を服従させ政治主導を実行するという約束は、大衆の支持を集めやすい。だが、これまでのところ、その仕事に堪えうる政治家は見当たらない。日本の恐るべき現状を前にしながら、あまりにも自己満足に陥っている。政治家としての技量を磨くことは、「族議員」の仲間に加わり狭い領地の中で影響力をふるうことでしかない。高い目標を持ち国益に奉仕する、真の政治家はどこにいるのか。
時代遅れの政治制度
無能で根性のない指導者もさることながら、国民は、腐敗まみれの政界にもまた、ますます愛想をつかしている。あまりにも多くの政治エリートが利をむさぼっているように見える。金をちょろまかす技術は実に巧みで、その痕跡を隠す技術は、それ以上に巧妙である。だが、国民の目は節穴ではない。そしてもう、うんざりしている。
「失われた一〇年」は、官民一体のいわゆる「日本株式会社」の手法に対する信用を失墜させた。戦後日本の奇跡的な経済発展の推進を助けたのは、官僚、政治家、財界、そして裏社会の間の、心地よいなれ合いの、時にはキナ臭い関係だった。だがそれは、二十一世紀の課題の解決には適していない。この仕組みの下で育った政治家は、滅びゆく恐竜の姿にますます似てきている。変化する環境に適合していないからである。いまや便利な手本など存在しない。昔のように、号令一つで変化を強いることもできない。この地図のない海を進む政治家たちは、むやみに腕を振り回し、改革を試行錯誤しているように見える。
昨年の総選挙での民主党の勝利は、自民党が支配する硬直した「五五年体制」から一歩を踏み出す重大な転機となった。だが民主党は、その負託を生かすための機会を浪費し、先の参院選挙でその代償を支払った。事態が改善されないことに対する有権者のフラストレーションと苛立ちによって、依然として日本の政治は流動的である。そして、どの党にも親しみを持たず、政権公約ではなく結果を求める、浮動的な有権者が増えている。
こうした政治の表情の変化に、各政党はうまく適合できていない。日本の政治は基本的に老人支配であり、多くの政治慣行が時代遅れのままである。若い人々が政治に背を向ける理由も、ここにある。私が教えている学生たちの多くは、政治家を「情けないおやじ」と見なし、薄汚い政治の世界と自分たちの間には深い溝がある、と感じている。たとえば、候補者の名前以外ほとんど内容のない大音声を連呼する、耳障りな選挙運動を許容する一方で、インターネットの使用を禁止しているのは、実にバカげている。
日本の民主主義の刷新を左右する利害関係者は、ほかにも存在する。活発な市民社会の成長は、二十一世紀日本のもっとも有望な潮流の一つである。だが、その将来性もまた浪費されつつある。重要なのは、非営利団体(NPO)が、彼らの行動目標を社会の主流に変え、もっと優れたメディア戦略を構築し、もっと資金を募集することである。最大の障害は、NPOへの寄付に対する税控除を促進しない政府である。政府は、NPOに対する疑念を、いまもなお抱き続けている。そして、NPOが政府の特権を侵食し、政策を批判するようになることを恐れている。だが、資金調達と提携関係の強化に加えて、まさにそれがNPOに求められていることなのである。
メディアにも責任がある
日本のメディアは、時の権力者にあまりにも敬意を払い、あまりにも唯々諾々と記者クラブを通じて管理されている。欧米の識者たちは、しばしばそう言って日本メディアを切り捨てる。しかしながら、エリートたちを守ってきた堅い殻も、いまや崩れ去った。情報公開法のおかげでメディアは、いかがわしい行いを覆い隠していたカーテンを引き開けることが可能になった。説明責任の拡大も、日本における前向きな潮流の一つである。だが、道のりはまだまだ長い。
混乱の責任を押し付ける「スケープゴート」として、政治家と官僚はもってこいである。だが、責任はメディアにもある。日本のメディアが昔よりも怒りっぽくなり、幾分か権力に遠慮しなくなったのは良いことである。だが、先の参院選挙戦をめぐる報道ぶりは、ヒステリックに近いものだった。
もちろん、メディアは批判的であるべきだ。だが、日本の過剰な政治報道は表面的なものばかりで、日本が直面する深刻な諸問題に関して公衆の議論を喚起するものはほとんどない。たとえば菅首相は、消費税に関して不用意に発言し、あとでそれを言い繕った結果、「揚げ足取り」報道の渦に巻き込まれた。そして、数週間前にメディアから贈られたばかりの、高支持率のバブルを破裂させてしまった。確かに首相は混乱を招いた。だが、まさにメディアによる袋叩きが、税金問題に関して強いメッセージを持つ断固たる指導者から、鳩山前首相なみの煮え切らない政治家へと、菅氏の姿を変えてしまったのである。
昨年、民主党が政権に就くやいなや、メディアは非現実的な期待感を盛り上げた。そして次には、その過剰な期待に民主党が応えていないことを暴露して回ったのである。あきらかに民主党は毒入りの杯を受け継いだ。自民党が掘った大穴の底から這い上がらなければならない。その巨大な課題を、一回の選挙で解決するのは不可能である。ジャーナリストはもっとも情報に通じた市民である。特効薬など存在しないことを知っている。にもかかわらず、政府が魔法の杖を持っているかのような期待感を煽ったのである。
いわゆる「メディア・スクラム」の過剰報道は、ジャーナリストの本分にもとるものである。日本のメディアは自ら腕力をふるって主役を務め、四人の首相を引きずり降ろし、残る一人に瀕死の重傷を負わせた。これは、小泉政権時代にメディアは踊らされ操作された、という非難の声に対して神経質になっているせいかもしれない。だが、優れた報道の結果として政権が倒れることはあっても、打倒それ自体を主目的とするのは本末転倒である。
道のりは長いが......
かつての日本の政治には大きな謎があった。それは、あまりにも長きにわたって有権者が寛容を示したことである。だが、その忍耐心は過去のものとなった。各政党がはるかに健全な形で切磋琢磨するようになったのは、心強い。しかしながら、長年の一党支配は、民主主義の制度と慣行に害を及ぼしてきた。その損傷の修復には時間がかかるだろう。また、政府のあらゆる発案を妨害し与党を立ち枯れ状態にする、いわゆる「小沢戦略」が、野党側の生き甲斐になっている。ここからも脱却しなければならない。
政治家が自ら改革を急がない限り、有権者も安全策を取り続けるだろう。それは、支持政党を次々に変え、希望を抱かせてくれる決定的な指導者が登場するのを待つことにほかならない。重ねて言うが、二〇〇九年に起きた五五年体制の解体は、日本で進行中の「創造的破壊」にとって非常に好ましい出来事である。だが、まだ道のりは長いのである。
菅首相の先行きは暗いように見える。野党側の議事妨害が増える可能性が高いからである。だが、首相が誰になろうと、大胆な発案を通じて指導者の地位を再構築する機会はまだある。もし私だったら、次のような行動計画を立てるだろう。
・ 五十歳以上の全公務員の給与を一五%削減する。
・ 国会議員が自ら定数を二五%削減するまで、年間の議員手当を二五%削減し、それによって節約した経費で委員会の政治調査職員を雇用する。
・ 全省庁の予算を一律一五%削減し、特殊法人への補助金を切り詰める。
・ 毎年三〇〇〇人の難民を受け入れることを目標とし、緒方貞子氏を座長とする委員会を設け、入国管理に関する政策の見直しを検討する。
・ NPOの、寄付金の税制上の優遇措置が受けられるための認定基準(認定特定非営利活動法人制度)を緩和し、三年以内にNPOの七五%がこの認定を受けられるようにすること。
・ 多くの企業が納税を回避できるような抜け道を除去して徴税を改善し、企業と自営業者に対して、より積極的な会計検査を実施する。
・ 政治資金規正法を改定し、一切の妥協を排除する、より厳しい罰則を導入する。小沢、鳩山両氏に対しては、議会で宣誓証言し金銭スキャンダルの説明をするよう要求する。もし拒否した場合は、二人を党から追放する。
・ 情報公開法を強化して透明性を促進し、すべての公的契約が透明な公開入札で行われるようにする。
・ 現存する投資障壁を積極的に除去する。また投資を誘致する地方自治体の努力を支援することを通じて、海外からの対日直接投資を増加させることを経済産業省に命じる。
・ 通商投資代表団を率いてBICI諸国(ブラジル、インド、中国、インドネシア)を訪れ、日本が依然として真剣であることを誇示する。
・ 教育の質を向上させるために、自ら考え解答を導きだす論理的思考能力の育成、ITリテラシー(情報を使いこなす能力)の育成と向上、そして外国語教育などに重点的に投資する。
・ 自殺者を減らすために、政府は、その原因となっている、たとえば精神疾患に対する診断と不十分な治療、経済的困窮、高齢者の貧困や地域社会においての孤立といった問題に対応する。
・ 政治家と官僚を含め、すべての年金を一本化し、特別扱いを除去する。
・ セーフティーネットを拡大する一方で、財界指導者と協力してデフレと戦い生産性を向上させて、安定した雇用を拡大する。また、同一業務に対する同一賃金を法制化し、それを実行する企業に優遇措置を与えることを通じて、いまや全労働者の三四%を占める非正規雇用労働者数を削減する。
・ さまざまなグリーン経済計画を通じて経済を刺激し、再生可能エネルギーの促進と、その送電網の近代化を目標にする。
これを実行に移せば、国民の信頼を回復し、首相の座にとどまり続けることができるかもしれない。首相がんばれ! 国民はあなたを頼りにしているのだから。
Jeff Kingston 1957年米国生まれ。コロンビア大学で国際関係を専攻後、歴史学の博士号取得。テンプル大学日本校アジア研究所所長。近著"Contemporary Japan:History,Politics,andSocialChange since the 1980s" が世界的に話題に
〔『中央公論』2010年10月号より〕