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井上正也 清和会の誕生――脱派閥を掲げた派閥の歴史

井上正也(政治学者)

党風刷新を目指して

 岸政権退陣後の1960年7月に成立した池田勇人政権は、国民所得倍増計画に象徴される高度経済成長路線を推進していく。

 岸の目指した党近代化の夢を受け継いだのは福田赳夫であった。池田政権発足後、福田は、池田政権が金権腐敗や派閥政治の問題に真剣に取り組まないことへの不満を募らせていた。こうしたなか、1962年に入ると、福田は派閥横断的に同志を募って、党近代化を目指す党風刷新運動に乗り出した。

 党風刷新運動は、①派閥本位の総裁選を廃止、②小選挙区制度の導入、③党による政治資金の組織的運営、を目的に掲げた。その内容は1990年代に実現する政治改革の内容を先取りするものであった。

 しかし、福田の行動は拙速であった。本来、時間をかけて同志の数を増やすべきであったが、政治改革と池田政権の倒閣という二重の目的を追求したため、同志の間でも足並みが揃わなかった。

 一方、池田首相も党風刷新運動への反撃に出る。池田は党近代化の要求に応えるため、三木武夫を第3次組織調査会(三木調査会)の会長に指名した。この三木調査会の活動が本格化するにつれて、党風刷新運動の存在感は次第に薄れたのである。

 結局、党風刷新運動は三木調査会が最終答申を示した後、役割を終えたとして解散する。政治改革と池田倒閣を目指した福田の党風刷新運動であったが、当初の目的を十分に果たせぬまま幕を閉じたのである。

 党風刷新運動を進める上で、福田にとって大きな打撃となったのは、岸派の分裂であった。岸退陣後、岸派は徐々にまとまりを失い、岸に重用された福田と、川島正次郎ら党人派との主導権争いが激しくなっていた。

 こうしたなか、党風刷新運動は分裂の決定打となった。福田は党内派閥の解散に先立ち、まず岸派の解散を求めた。しかし、これに派閥の有用性を主張する川島らは強く反対した。

 それでも、岸は反対を押し切って自らの派閥の解散を強行する。派閥を解散しても、時間が経てば、福田の党風刷新運動に加わる形で旧岸派が再び集結するだろうというのが岸の考えであった。

 ところが、岸の思惑は外れた。派閥の一部は党風刷新運動に向かわず、川島や椎名悦三郎を中心に新たな派閥を作る方向に動いたのである。

 かくして、亀裂が生じていた岸派は、岸直系、党風刷新連盟、川島派(交友クラブ)の三派に分裂した。これにより川島・椎名と福田との間にしこりが残り、後の福田の政治活動に大きく影を落とすことになる。

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