安倍晋三元首相が非業の死を遂げて以降、清和政策研究会が揺れている。この自民党の最大派閥は、そもそもいかなる経緯で生まれ、どのような軌跡をたどってきたのか。岸信介や福田赳夫らの政治活動について、井上正也・慶應大学教授が論じる。
(『中央公論』2022年12月号より抜粋)
(『中央公論』2022年12月号より抜粋)
- 揺れる最大派閥
- 派閥解体を目指した岸
- 党風刷新を目指して
- 福田派の形成
揺れる最大派閥
安倍晋三元首相が凶弾に倒れ、自民党の最大派閥である清和政策研究会(以下、清和会)が揺れている。
衆目の一致する後継者が不在のなか、派閥分裂への危機感を繰り返し示しているのは、同派の会長経験者である森喜朗元首相だ。森氏は旧経世会(旧竹下派)をひきあいに出して、派閥が巨大化して構成員が100人を超えれば、集団としてのまとまりを失い、やがては分裂すると警鐘を鳴らしてきた。
実際、「一致団結、箱弁当」と呼ばれた往年の経世会と比べると、清和会は結束力を欠いた「寄り合い所帯」の集団である。1990年代までは会長の交代前後で幾度となく分裂を繰り返してきた。
清和会は、憲法改正や強硬な対外政策を主張する保守派のイデオロギーで団結しているように見られがちだ。
だが、これも誇張されたイメージであろう。近年では清和会の政治思想を、安倍元首相を中心とするタカ派の「安倍系」と、福田赳夫(たけお)元首相を支えてきた穏健派の「福田系」に分ける論調が見られるように、外交政策や憲法観をめぐる見解は歴代会長によって大きく異なる。
それでは清和会は、何をもってレゾンデートル(存在理由)としてきたのか。自民党の派閥とは本来、総裁候補の実力者が、政治資金やポストの配分を通じて同志を増やし、政権獲得を目指す集団である。これを究極まで突き詰めたのが田中角栄であった。
それに対して、清和会がユニークなのは、金権政治に反対し、脱派閥を訴えながら、自民党内の熾烈な派閥抗争を戦い抜いてきたという点である。
本稿では清和会の前身にあたる岸信介・福田赳夫の派閥時代を中心に、同派閥がどのような経緯で誕生し、いかなる政治理念を掲げてきたかを明らかにしたい。