派閥解体を目指した岸
清和会の源流は1950年代にできた岸信介派である。岸はサンフランシスコ平和条約発効と同時期に公職追放を解除され、日本再建連盟という新党を立ち上げた。しかし、総選挙で日本再建連盟は惨敗し、まもなく岸は弟・佐藤栄作の助力で与党自由党に入党した。
岸派のメンバーは、戦前の岸が商工大臣を務めていた時代に商工委員であった議員たちが中心である。これに戦後初当選して岸の新党運動に共鳴した議員たちも加わった。なかでも岸が新党運動を理由に自由党を除名された時、岸に同調して自由党を脱党した川島正次郎や福田赳夫といったメンバー(人数は諸説ある)は岸派の中核となった。
その後、岸は日本民主党の初代幹事長、次いで保守合同で誕生した自民党の初代幹事長に就任する。その間、岸派は拡大し続けた。
自民党の結党当初は流動的であった議員の所属派閥がはっきりするのは、1956年の総裁選の時である。派閥に属する議員数では優位にあった岸だが、2位・3位連合を組んだ石橋湛山の前にまさかの敗北を喫する。だが、石橋首相はまもなく病気で退陣し、外相であった岸は首相となった。
数の力で総理・総裁を目指した岸であったが、彼は派閥を肯定的に見ていたわけではない。政権樹立後は一転して派閥を解散させようとした。なぜなら、派閥単位で公然と資金集めが行われ、金権政治が蔓延し、派閥間でのポスト争いも激化していたためである。
岸は、自民党を強い指導力を持った近代的な組織政党へ脱皮させようと考えていた。そのため、1957年9月、岸は党幹部と会談して、自分の派閥を含めた党内派閥を解散することに合意した。
しかしながら、資金やポストと密接に結びついた派閥の解散は容易ではなかった。各派閥は事務所を廃止したものの、まもなく看板を「政策派閥」と衣替えして活動を再開させたのである。
岸政権にとって派閥は最後まで鬼門であった。日米安保条約改定への反対運動が高まるなか、党内反主流派の派閥はこれに同調して岸攻撃を激化させた。岸政権は新安保条約成立後に退陣するが、自民党の派閥政治の弊害をいかに克服するかという大きな課題が残された。