福田派の形成
党風刷新運動の終了後、福田の下には24名の代議士が残った。彼らは事実上の福田派として、岸派事務所があった赤坂プリンスホテル旧館を活動拠点にするようになった。
清和会の歴史は、党風刷新運動で示された福田の政治理念抜きには語れない。金権政治を批判し派閥解消を訴える福田の姿勢が、その後の福田派のあり方に大きく影響したのである。
池田政権時代は党風刷新運動を率いたため人事面で冷遇された福田であったが、1964年11月に佐藤栄作政権が発足すると一転して重用される。2度の蔵相や幹事長を歴任した福田は、やがて衆目一致する佐藤首相の後継者と見られるようになった。
福田派も他派閥からの離脱者や新たに当選した議員を加えることで徐々に増加した。1960年代後半には加藤六月(むつき)、塩川正十郎(まさじゅうろう)、森喜朗らが初当選し、小泉純一郎もまた72年に初当選している。福田子飼いと言える彼らは、後に清和会の中心となっていった。
その一方で福田は、総理・総裁の座を勝ち取るために派閥を急拡大させようとしなかった。福田にとって総理とは、それにふさわしい資質を持った政治家が推されてなるものであり、権力闘争で勝ち取るものではなかったのである。
しかし、やはり総裁選を最後に決めるのは数の論理である。佐藤首相は党内で勢力を一向に拡大させない福田に不満であった。1970年秋、総裁3期目を終えようとする佐藤首相は、福田への政権禅譲を真剣に考えていた。だが、佐藤が懸念したのは、福田を擁立した場合、基礎票が十分でない福田が票をまとめきれず、総裁選で対立候補に敗北することであった。
悩む佐藤の心理を巧みについたのが、党副総裁の川島正次郎である。川島は福田への政権禅譲を阻止すべく、佐藤の総裁続投を支持した。それは川島と同じ党人派である田中角栄が力を蓄えるまで時間を稼ぐためであったと言われる。
佐藤が続投を決めた後、ようやく福田派も動き始めた。この背景には、次期総裁選を目指して派閥として積極的に活動するよう求めた若手議員の突き上げがあった。
それまで派閥としての性質すら曖昧であった福田派は、名称を「紀尾井会」と定めた。そして、組織・遊説、政策、情報・宣伝の3部会を設けて、ようやく派閥としての組織を整え始めたのである。
(続きは『中央公論』2022年12月号で)
1979年大阪府生まれ。慶應義塾大学教授。神戸大学大学院博士課程修了。博士(政治学)。専門は日本政治外交史。著書に『日中国交正常化の政治史』、共著に『評伝福田赳夫』など。