"懐刀"となった渡辺
渡辺はどのようにして取材相手の信頼を得ていったのか。「あえて書くことを抑制することで相手の信頼を得る」という自らの取材手法について、次のように語る。
「抑制しながら記事を書いたほうが、はるかに特ダネの量が多いんですよ。本人の嫌なことは書かない。少しずつ書いても全部特ダネになる。それで十分です。『取材するやつが、取材対象にあまり近寄っちゃいかん』と馬鹿なことを言うやつがいるが、近寄らなきゃネタを取れない。書いちゃいかんと言われているのに、それを全部書いていたら、二度と会ってくれなくなる。みんな書いてたら、いつまでたってもベタ記事しか書けない記者になっちゃうの。
行き当たりばったりで政治家が本当の話をするなんていうのは、絶対にあり得ない。食い込んでから小出しにすることだ。『これは本当に書かんでくれよ』と言われたことは書かない。そうすると『もう大丈夫だ』と、次から次へ『王様の耳はロバの耳』みたいな調子で、全部しゃべってくれるようになるんだよ。池田勇人も佐藤栄作も大野伴睦もみんなそうだったよ。河野一郎、鳩山一郎も、全部そうなの。貯蓄が必要なんだ、新聞記者っていうのは」
後に大野について回顧した文章でも、渡辺は次のように綴っている。
「私は、彼から当時の最高政治機密をあまるほど聞いた。(中略)『大野番』時代の記者としての私の最大の苦痛は、彼からもらった特ダネを書かずにしまっておくことだった。記者商売の哀歓を、彼は知りつくしていた。
だから時折り、OKの信号を出してくれ、特ダネをものにしたこともあった。しかし、個々の事柄について書けなくても、時の政治の動きを追っかけ、正確な判断をする上で、その情報はきわめて役立った。これは、たった一度の特ダネ意識で、この政治家をあざむくより、記者としての私にとって、はるかに得るものが多かった、と信じている(※3)」
権謀術数の渦巻く政治の世界に飛び込み、大野伴睦の懐刀となった渡辺は、永田町で一気に頭角を現していった。この後、名だたる大物政治家と渡り合いながら、戦後日本の舞台裏に深く関わっていくことになる。
※1、渡辺恒雄「新聞記者としてみた先生の一面」『経済時代』1964年7月号、経済時代社、46頁。
※2、1974年からNHKで放送を開始した夜の総合ニュース番組。キャスターが自分の言葉で語りかけるスタイルは、日本のテレビニュースに大きな影響を与えた。
※3、渡辺恒雄「大野『伴チャン』の想い出」『大野伴睦 小伝と追想記』大野伴睦先生追想録刊行会、1970年、212頁。
安井 浩一郎
「最後の証人」が語る戦後日本の内幕。 NHKスペシャル、待望の書籍化! 1945年、19歳で学徒出陣により徴兵され、戦争と軍隊を嫌悪した渡辺。政治記者となって目にしたのは、嫉妬が渦巻き、カネが飛び交う永田町政治の現実だった――。「総理大臣禅譲密約書」の真相、日韓国交正常化交渉と沖縄返還の裏側、歴代総理大臣の素顔。戦後日本が生んだ稀代のリアリストが、縦横無尽に語り尽くす。