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震災後も珠洲市とともに生きる――市民のビジョンを収集・ライブラリー化 アステナホールディングス前社長・岩城慶太郎

岩城慶太郎(アステナホールディングス前社長)
「能登のステキ写真」に寄せられたうちの1枚。夏に行われる祭りで、氏子たちが巨大な灯籠であるキリコを担ぐ
(『中央公論』2024年5月号より抜粋)

奥能登から「人を出す」ために

――本誌2月号(1月10日発売)では、能登半島の最北部である珠洲市への本社機能の一部移転と、ご自身の珠洲、東京、大阪での3拠点生活についてお聞きしました。刊行を目前に控えた元日に能登半島地震が発生し、珠洲市をはじめとした奥能登の被害の大きさには言葉を失うほかありませんでした。

 岩城前社長やアステナホールディングスの皆様の安否も気になっておりましたが、発災当日からフェイスブックで支援を呼びかけ、翌日以降も精力的に活動されているご様子に、安堵と希望を感じました。


 ありがとうございます。地震発生時は東京におり、外出中でした。その日のうちに社員全員の無事と、会社の被害状況が軽微であることは確認できましたが、住まいのある集落への陸路が寸断されて孤立していることもわかり、それが奥能登の各所で起こっている状況であることも見えてきました。現地の人々の顔を思い浮かべると辛くなりましたが、現地にいてはできない支援に専念しようと考え、東京にとどまりました。

 生存率が著しく下がるといわれる発災後72時間までは、孤立集落に残された住民救助のため、自分の電話番号を公開するなどして情報収集にあたっていましたが、それ以降は奥能登住民の二次避難支援に注力しました。陸路の寸断のみならず海路も、地盤隆起のため着岸できない港がほとんどで、避難所に十分な救援物資が届いていなかったからです。


――1月4日からは金沢市内のホテルなどを「みなし避難所」として私費で借り上げて確保され、さらにマイクロバスを調達し被災者の移送を支援されたそうですが、住民を奥能登から出すことが急務だったのですね。


 のちに災害救助法が適用されて「みなし」ではなくなり、ホテル代の大半は戻ってきましたが、会社のお金を使うわけにはいかないので私費でやっていましたし、松の内以外は会社もほとんど休まず、勤務時間のあとに個人として支援活動を行っていました。

 社員たちも自発的に救援活動に参加してくれましたが、経営者としては危険を冒してほしくありません。でも、個人の責任で行くという人たちを止める権限もない。会社としては「何かあっても責任は取れない」と念押しするしかありません。本音を言えば事業の面でも、勝手に動いてくれる連中がいるからこそ、災害時の事業継続計画が絵空事にならずに済む、というのが現実です。だから内心では、社員たちには感謝の念しかありません。


――6日には「能登半島地震避難者受入基金」を立ち上げ、北陸3県の空き家募集も開始されました。


 ホテルでの受け入れにも、大家族では入れないなど限界があり、1月末まで無償で貸してもらえることなどを条件にネット上で募集をかけました。基金の目的は、これらにかかる費用を確保することです。空き家所有者とのマッチングや、二次避難者へ仕事の斡旋を行うサイトも立ち上げました。13日からは被災地と金沢市を結ぶ定期運行バスも走らせ、避難者が片付けなどのために一時的に自宅へ戻れるようにしました。その後も首都圏の公営住宅に入居する被災者の飛行機代を支給するなど、発災からの1ヵ月は奥能登の人々を孤立させず、いったん安心して外に出てもらうことに注力しました。課題はまだまだありますが、今は「人を出す」フェーズから次のフェーズに移っていると考えています。

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