平山亜佐子 断髪とパンツーー男装に見る近代史 「ご一新」で全国各地に現れた散切り頭の女性たち

第二回 違式詿違条例(男装、女装の禁止)公布
平山亜佐子

女性の断髪、男装や女装禁止の条例公布

 そんな風潮に慌てた政府は4月に「(断髪は)専ラ男子ニ限候処」などとする布告を出したが、罰則もなかったために流れは止まず。
 二の矢として11月に東京府が違式詿違条例〈いしきかいいじょうれい〉を公布し、その際に女性の断髪、男装や女装禁止の項目を盛り込んだ。
 違式詿違条例とは軽犯罪法のようなもので、総則5条,違式罪目23条,詿違罪目25条の53条からなる。
 違式とは意図的に行われた犯罪を、詿違とは偶発的に行われた犯罪を指し、贖金(罰金)や拘留期間は前者の方が重い。
 例えば、男女混浴、男装・女装、刺青、無届による外国人止宿、火事場の無関係者の乗馬通行などが違式に当たり、神社仏閣への落書き、喧嘩口論、女性の断髪などが詿違とされる。
 庶民の日常的なトラブルから生活にまで罰則がつく驚きの内容である。
 条例の大きな目的の一つは、西欧化を急ぐ政府が江戸時代から続いた裸体往来、喧嘩、立小便などの野蛮な習慣をやめさせるところにあったが、肝心のイギリス人からは「宗教の仕事は罪を作ることだという皮肉な科白があるが、天皇はこんな司祭じみたまねをするという危険を冒している」(明治6年10月30日付「ノース・チャイナ・ヘラルド」坂誥智美「「違式詿違条例」のなかのジェンダー」)と不評だった。
 一方で庶民はといえば、銀座の写真館に飾られた男装姿の花魁の写真を見た外国人が男性と誤解して怒っているので写真も禁止せよ(1876年7月20日付読売新聞「寄書」)とか、女義太夫が高座の外でも男装しているのは〈外国人にも笑われます〉(1875年10月9日付読売新聞「寄書」)と咎める者もいれば、反発する者もいた。

 そんななか、相変わらず多様なジェンダーアイデンティティを持つ者(たぶん)たちは元気である。
 1879(明治12)年4月17日付「読売新聞」には、飯倉町五丁目に住む道具屋の女房のお柳〈りゅう〉の乱行について報じた。
曰く、「女のくせに散切〈ざんぎり〉に成って去る十四日に同所の大工津山何某の印半纏を借り込み股引腹掛の勇みな形〈な〉りで近所の娘と合乗りにて神明前で写真を取り夫〈それ〉より同所の料理屋若松へ上がって散々飲み喰いをした揚句に其娘の止めるのも聞かず綱附きの人力車で品川へ出掛けたゆえ彼の娘は拠所〈よんどころ〉なく其処から帰ったがお柳は品川の貸座敷新大和へ揚がり其の翌日は名古屋へ揚り今に居続けをして居て帰って来ないという」。
 ただ散切り頭になるだけではなく、半纏に股引、腹掛け(お祭りで神輿を担ぐ人たちのファッションと思えばわかりやすい)とは完全な男装スタイルである。
 お柳が住む飯倉五丁目は今の東京都港区東麻布辺り、近所の娘と写真を撮った神明前は芝大門にある芝大神宮前の写真屋というから距離的にはさほど遠くはないが、そこから人力車で品川に出掛け貸座敷に泊まって、翌日は名古屋の貸座敷にいるとはなんともエネルギッシュ。
 しかし、そもそも彼女は道具屋の女房なのである。どんなつもりで近所の娘を連れ回したり貸座敷で芸者遊びをしたのか気になるところではある。

1  2  3