鈴木涼美 青年の傷つきとコンプレックスを過剰に強調する"ジャック語"を味わう(ジャン・コクトー『大胯びらき』を読む)
第12回 基本的には他人事でしかない男の青春(ジャン・コクトー『大胯びらき』)
鈴木涼美
女も自分の面倒くささや孤独を言語化しなければ
パパ活嬢だって踊り子だって人妻だって真面目な女学生だって、大変複雑で、不自由で、苦しみ悩む面倒くさい存在なわけです。若い男の子はときに、自分の面倒くささで私小説や青春小説をしたためて、こちらにその若い男の面倒臭さを延々と押し付けてくるわりに、その行為に忙しくて女の複雑さを近視眼で、しかも多くの場合はほとんど脳内でしか見ようとしてくれないかもしれません。ジャックの目に映るジェルメーヌはそのまま、ミスチルやB'zなどの男の子が愛する男の内面吐露的な歌詞に見られるような自己嫌悪と自己陶酔、そしてそれを鮮やかに浮かび上がらせるための自由で自分勝手な女のそれに重なります。私はジャックからみて自由奔放で移り気なジェルメーヌを思い出すとき、必ず女は女で、自分の面倒臭さや孤独と向き合って表現していくことの必要性を感じます。彼らの想像力の中では、自分が心惹かれる自由な女と、自分が理解を拒絶する面倒くさい女の二種類に落ち着いてしまいますが、その心惹かれる自由な女の中の面倒臭さの発見こそが、こちらが求めたいことなわけです。
はたして、彼らが自分の複雑さを彩るために持ち出す自由な女のモチーフが解体されたところで、男と女が合理的にうまくいくなんていうことはおそらくありません。そしてそれ以前におそらく、男が女神を自由で強く気高い存在に押し上げてしまう癖を手放すことはあまり期待はできないでしょう。それでも、お互いが言語化する複雑さの存在が少しでも目に入れば、それが起因して起こる拗れやすれ違いは、愛すべき人生の醍醐味くらいにはなる気がします。「われわれ人間に与えられた自由というものは、植物や動物が本能的に避ける過ちを、かえってわれわれに犯させるところのものではないだろうか」。
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鈴木涼美
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。修士論文が『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』のタイトルで書籍化される。卒業後、日本経済新聞社を経て、作家に。著書に『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』『おじさんメモリアル』『オンナの値段』『ニッポンのおじさん』、『往復書簡 限界から始まる』(上野千鶴子氏との共著)など。