村上春樹 著 『中国行きのスロウ・ボート』
武田百合子 著 『富士日記』新版(上・中・下)
「中公文庫」が好きだ。もちろんちくま文庫や河出文庫、新潮文庫だって好きなのだが、中公文庫の品のよい古めかしさは、自分が本を愛好するグループの末席に加えてもらった気にもなり、読んでいてなにか誇らしい。
家の本棚には、ずっとそこにあったため陽に焼けてしまった中公文庫の本がいくつもあるが、なかでも『中国行きのスロウ・ボート』は、いつも手に取ることができる場所に置いてある。
いや、正確にいえば、そこに収録されている短編「午後の最後の芝生」が定期的に読みたくなるのだ。
「午後の最後の芝生」をはじめて読んだのは、大学生のころだったと思う。芝刈りのアルバイトをしている「僕」が、その最終日、きちんと、丁寧に、芝生を刈るという、それだけの話。
この話には、わたしが勝手にそう思っている、村上春樹のハードボイルドなよさが余すところなく含まれている。
・黙ってやる
・群れずにやる
・頼まれた仕事は手を抜かずに行う
・音楽が好き
最後の一つは関係ないかもしれないが、そうした主人公の行動規範が好ましく、それはいまに至るまでわたしのものの観方を作っていると思う。わたしもいまでこそ本を売る仕事をしているが、心のうちではいつもラジオのチャンネルをFENに合わせ、ひとり黙々と芝生を刈っているのだ。
まいにち決まった時間に職場に行き、店の四隅から順に床を掃いて、本の面を揃えていく。愛想はないが、やるべき仕事は手を抜かずに黙って行う。わたしにも刈るべき芝生が見つかって、ほんとうによかった。
『富士日記』も年に一度は開く本だ。ここでわざわざ書く必要もないほど、多くの人から愛されている本だが(『富士日記を読む』という中公文庫もあるくらい)、せっかくの機会なので「わたしも好きです」といいたかった。
日記には富士山麓の別荘で起こったこと、食べたごはんなどが、淡々と記述されている。無駄がまったくないのに、書かれたものの存在が生々しく立ち上がってくる文章は、いつ、どこを読んでも、武田百合子にしか書くことのできない魅力があり、完全に参ってしまう。叶うものなら、こんな風にして世界を見てみたいし、書いてみたい。
今年の八月は、『黒い雨』を少しずつ読んでいた。
夜 「黒い雨」を読む。
『富士日記』によれば、彼女が『黒い雨』を読んでいたのは、昭和44年から46年の夏のこと。当時はまだ、戦争の記憶が人々のあいだに生々しく残っていたのだろう。短くさらっと書かれた、鎮魂の時間。
時を経て体験が重なるような、不思議な感覚だった。
村上春樹