「わたしの街の谷崎潤一郎」松永K三蔵(小説家)

私の好きな中公文庫
松永K三蔵(まつなが・けい・さんぞう/小説家)
『細雪(全)』『痴人の愛』『陰翳礼讃』
松永K三蔵さんが選ぶ「私の好きな中公文庫」
 谷崎潤一郎著
 『細雪(全)』 『痴人の愛』 『陰翳礼讃』

数年前の春、義母(はは)を誘って芦屋ルナ・ホールに映画『細雪』(1959年)を観に行った。
壁一面に本を詰めた部屋を持つ読書家の義母と『細雪』の話になったことがあったからだ。
文学にも谷崎にも興味がなく、『細雪』も未読だった妻はお留守番。

谷崎潤一郎の代表作『細雪』。
この作品を読むのなら、やはり全一巻にまとめられた中公文庫だろう。
なぜなら『細雪』は掛け値なしに面白いから。

私はほとんど貪るように一気に読んだ。
ユーモアを交えながら飽きさせない物語、流れるような語り口の筆運び、名文、美文、酔うような日本語の美しさ。
私はその作品世界に浸り、分厚いこの本の残りページが薄くなっていくのをどれほど惜しく、悔しく思ったことか。

舞台となった芦屋の隣、西宮で育った私には、地元とも言える作中の景色がいくつも頭に浮かんで来たが、それは芦屋に住む義母もやはり同じだったようで、そんなことに話は盛り上がった。
それならば、ということで観に行った、芦屋ロケで撮られた映画『細雪』。
それは本を読んで思い描いた景色の答え合わせのような趣向で、作品はもちろん、背景の映像も楽しかった。

芦屋ビゴの店でランチをした後、芦屋川の駅から川沿いの道にロケ地を探して少し歩いた。

あそこじゃないかしら?
あのシーンはここですかね、ほら、あの橋。
そんなことを言い合って歩くのも楽しかった。

私の両親はともに関東人で、関西には何の所縁もない。
九州に単身赴任していた父を訪ねた母は、関東に戻る途中の阪神間で、谷崎の愛した白砂青松の耀きに目をうたれたという。
「ここに住みたい」
そんな「ナオミ」のように奔放なことを言い出した母に引き摺られるように父は、阪神間に移り住み、そうしてここが私の地元になった。
「石橋を叩いて、渡らない」と公言するほど、どこまでも慎重で真面目な父は谷崎作品に出て来る、自由闊達な女性に振り回される男に似ているのかも知れない――。

芦屋川 河口まで.jpeg

見上げれば六甲山脈。
その峰々から水をあつめて河口まで、青い松林に彩られた芦屋川。
「白砂青松」――私は幼い頃から母に、この地の美しさについて繰り返し聞かされた。

後年、引き継いだ蔵書の中にはなかったが、やはり読書家だった母も『細雪』を読んだはずだ。
その母は文学というものを私に教え、そして私が何も返せぬまま早く逝き、人生の「陰翳」をも私に教えてくれた。

松子夫人の手による「細雪」の碑がある芦屋川沿いの道を義母(はは)と歩く。
いいですねえ。義母は楽しんでくれたらしかった。

松籟吹き抜ける木立の先に、母の心を捉えた茅渟(ちぬ)の海のひかりが見える。
そしてその松林の影に棲む陰翳。

谷崎が愛したその「陰翳」を私は自分に馴染むように感じている。

芦屋川の松林.jpeg

プロフィール写真.jpeg

文・写真 松永K三蔵さん
三蔵亭日乗  ― 松永K三蔵ウェブサイト ―

『細雪(全)』

谷崎潤一郎

大阪船場の旧家蒔岡家の美しい四姉妹を優雅な風俗・行事とともに描く。女性への永遠の願いを〝雪子〟に託す谷崎文学の代表作。〈解説〉田辺聖子

『痴人の愛』

谷崎潤一郎

美少女ナオミの若々しい肢体にひかれ、やがて成熟したその奔放な魅力のとりことなった譲治。女の魔性に跪く男の惑乱と陶酔を描く。〈解説〉河野多恵子

『陰翳礼讃』

谷崎潤一郎

日本の伝統美の本質を、かげや隈の内に見出す「陰翳礼讃」「厠のいろいろ」を始め、「恋愛及び色情」「客ぎらい」など随想六篇を収む。〈解説〉吉行淳之介

松永K三蔵(まつなが・けい・さんぞう/小説家)
小説家。茨城県生まれ。関西学院大学文学部卒業。第64回群像新人文学賞優秀賞「カメオ」でデビュー。エッセイ「文学のトゲ」(群像2023年6月号)など。
個人サイト 三蔵亭日乗 ― 松永K三蔵ウェブサイト ― ( m-k-sanzo.com )
1