北大路魯山人『魯山人味道』
大岡昇平『レイテ戦記』(一)~(四)
保坂和志『あさつゆ通信』
中公文庫、初めて読んだのはなんだったっけ。たぶん井上ひさしか梅棹忠夫、いや小此木啓吾だったかもしれない。
とにかくよその文庫とはひと味ちがう大人の香りがただようラインナップにどきどきしながら、放課後の図書室で手にとった記憶がある。
食のエッセイも中公文庫によって洗礼を受けた。
とりわけ新鮮だったのは、変人のひしめくこの界隈でもへんくつさにおいて他の追随をゆるさない北大路魯山人『魯山人味道』だ。
これは当時、表紙もよかった。呉須赤絵鉢に葡萄が盛られた自筆画で、いかにも当人の気に入りそうな繊細にして大らかな器なのである。
あと目をみはったのがそのくいしんぼうぶり。ブリア=サヴァランの言うように、天然の美食家たるには大食漢でなければならないというあたりまえのことを知った一冊だった。
次に思いうかぶのは大岡昇平『レイテ戦記』である。
戦争というのは物書きたちがこぞって知力と体力を投入してきた主題だけれど、死んだ兵士たちに捧げられたこの小説はなかでも抜きん出て濃密で、厖大な資料を駆使して事実をひもといてゆく執念もさることながら、それらを再構築し、失われた時間を追体験してゆくようすが圧巻だ。
当時の愚かしい作戦が、そしてまた戦記文学がつねに陥ってきた「物語」への批判としても比類のない迫力があり、個人と国家との間の倫理的対立という命題をかたときも離れない。
特攻にかんする言及の危うさなど、ぎりぎりの足場に立つ大岡のすがたが胸に重い作品でもあった。
さいきん読んだものでは保坂和志『あさつゆ通信』が好きだ。
これは「たびたびあなたに話してきたことだが僕は鎌倉が好きだ」という印象的な冒頭からはじまる、作者がみずからの子ども時代のことをつれづれなるままに綴った小説で、ひとつひとつのエピソードが浅い眠りにちらばる夢の欠片めき、たっぷりと光を含んでいる。
あなたを思ういま・ここを糧として、いま・ここならざる回想を生きる作者の、ひっきりなしに震えつづける舌のような質感の文章も美しく(それはジョナス・メカスのソニマージュにとてもよく似ている)、読んでいるあいだずっと、どこからか響いてくるきれいな鈴の音を聞くともなしに聞いている気分だった。
北大路魯山人