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鈴木涼美 ルーズソックスを履いていない時の所在のなさは、ファンダメンタルで強くて重くて苦しいものだった(鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションて何?』を読む)

第15回 それでもピンヒールは正義(鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションて何?』)
鈴木涼美

「自分のための」おしゃれ/「他人」の眼差し

 一時期私が勤めていた横浜の大手のキャバクラでは、売り上げが上から3位までに入らない限り黒のドレスを着てはいけないという規則がありました。色々と気になるところを隠してくれて、身体を引き締めてくれる黒いドレスは人気で、放っておくと店内は黒い服を着たホステスで溢れかえってしまい、その場に必要な華やかさが演出できないため、ナンバースリーまでのホステスへのご褒美として店側が用意した特典だったと考えられます。売り上げが好調で初めて黒いドレスを着る権利を得たとき、私はどんなにダイエット不足のだらしない身体でも、ムダ毛の処理が甘くても、化粧のりやヘアメイクがイマイチでも、自信を持って店内を歩き回っていました。それくらい、レッテルとしての服は時に強烈な味方となって人生を後押ししてくれるものです。

 と、同時に「制度と寝る服」は私たちを一つのイメージの中に固定し、「等身大」を押し付け、自分の考える自分のイメージと絶えずずれて窮屈な思いをさせてくるものでもあります。女性らしさや男性らしさの解体が盛んな近年では、かつて女性の就業服と呼ばれたものを廃止するなど、レッテルとしての服装から抜け出そうという動きはよく見られます。と同時に、男性から見られる客体としての女という存在に抵抗するあまり、ステレオタイプに思えるようなアイテムを手放すだけでなく、過剰にめかすこと自体がどこかダサいような、さりげない服や自然体と呼ばれる状態が好まれることも増えました。女性のおめかしが長く男性にアピールするものだとされてきた歴史があるぶん、「自分のためのおしゃれ」というキーワードは近年のファッション誌では重要なキーワードとなっており、自分の属性を示したり、男のフェティッシュに訴えたり、セックスアピールに繋がったりする服装は嫌われがちです。これはとても健全な、自分を束縛するものへの抵抗であると同時に、抵抗そのものが規定となって、逆に自由度を奪うこともあると私には思えます。

 どんなファッションを選ぶか、それによってどんな満足を求めるかが自由である以上、おしゃれが最終的には自分のためであることは間違いありません。同時に、著者が前提として開示するように、「じぶんが他人の眼にどんなふうに映っているか? ――そういうことを意識しだしたとき、つまり他人の視線にまで想像力がおよびだしたとき、ぼくらははじめて服を選んで着る」のも事実です。むしろだからこそ、ファッションは抵抗であり、表現であり得るわけで、他人の眼を意識するというのは必ずしもその好みに迎合するというだけではなく、それを裏切ったり、意表を衝いたり、無視したりする対象にもなり得るのでしょう。著者はファッションの原則を「いつもじぶんの表面に最大限の張力を保っておくこと」だと説きますが、私はこれを、レッテルの利用と離脱の絶え間ない反復の中で、永遠に取れないバランスを模索し続けることだというように読みました。

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