鈴木涼美 ルーズソックスを履いていない時の所在のなさは、ファンダメンタルで強くて重くて苦しいものだった(鷲田清一『ちぐはぐな身体 ファッションて何?』を読む)
ファッションが運んでくれたもの
本の中ではコム デ ギャルソンのコレクションにある極端に長い袖のジャケットや、著者自身が着たヨウジヤマモトのやはり袖の長いスーツが、「未来に備えていま何かを準備をしておくという態度と相容れない服」=「用意をしない服」として紹介されるなど、前衛派と呼ばれた名だたるデザイナーたちが何に挑戦しようとしていたのかについて具体的な考察をされている箇所もあり、またタトゥーやダイエット症候群、清潔症候群などの起こりとファッションの関係について分析もされています。ファッションが常に変化し、流行も変われば、自分の人生の地点によって自分自身のファッション態度も変わっていくのは、それくらい私たちの身体や精神が固定され得ないイメージだということです。昨日着心地が良かった服が今日は退屈に思えたりする、それは何も単なる飽きっぽさや贅沢趣味なのではなく、掴み所のない自分という存在を様々な角度から眼差す運動なのかもしれません。時にそれは病理のようになって、ダイエットや過度な朝シャンだけでなく、買い物依存やカード破産に追い込まれる人もいるし、私自身もヒール病とも言える腰痛とは長い付き合いです。
それでもファッションが運んでくる、それなしではつまらない上によくわからない自分自身との付き合いや葛藤は社会や日常に退屈せずにそれを生きて歩くにふさわしい楽しいものにしてくれたと思うのです。ヒール込みの身長やスカルプネイル込みの指の長さがいつしか自分自身のサイズになってくれると信じたあの頃も、オーバーサイズのだらしない服であえて出勤して黒いドレスに着替えるキャバクラの更衣室も、清楚な格好にド派手な下着で紛れ込んだパーティーも、不安定で退屈な存在である私を、何かその場の楽しさを模索する存在に引き上げてくれるものでした。
「ファッションにはそういう意味で、初めから不良性が、いかがわしさがつきまとう。もともと等身大のファッションなんてありえないのであって、つねに背伸びするか、萎縮するか、つまりサイズがずれてしまうのが人間だ」