宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』
白川静『孔子伝』
会田雄次『アーロン収容所』
もう30年近く前、文学部の学生だった私は、しばしば書店、古書店へ通いました。
初学者にとって、棚に並ぶ中央公論社(当時)の「世界の名著」「日本の名著」の背表紙は非常に印象的で、端から端まで眺めては何かを学んだ気になったものでした(読むことにかけては碌すっぽでしたが)。
中公新書は、学問の最初の扉を何度も開けてくれました。
そして中公文庫といえば、単行本やこれらの叢書・新書から厳選された教養書に手軽に親しめるレーベルだというのが当時私が抱いた印象であり、今も基本変わりません。
①宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』
この時期夢中になって読んだ小説に、浅田次郎著『蒼穹の昴』がありました。
清朝末期の動乱の中国を描いた大作ですが、私が特に惹きつけられたのは若き梁文秀(リアン ウェンシウ)が科挙試験に挑む第一部のクライマックスでした。
その臨場感と迫真性にのめり込みました。
そしてそんなドラマを生み出した巨大な制度である「科挙」に関心が深まり、読んだのがこの本です。
国立学校入学のための「県試」から、科挙の大本番ともいうべき「会試」、最終試験にして天子自らが試験官かつ責任者となる「殿試」まで、永く涯(はて)ない試験、試験。
淡々としつつも詳細を極める記述の合間に挟まれる、受験生たちと試験官、さらに一族郎党親戚全員を巻き込む悲喜こもごものエピソードがとにかく面白い。
信じ難いドラマも生まれるはずです。
②白川静『孔子伝』
中国哲学専攻に進んだ後は、厳格な教授の元で日々学びました。
近代以前の儒者も斯くやあらん、と思わせる教授からはキツい指導を受けましたが、特に『論語』の講読からは多大なるものを得ました。
古典から滋味を感得できるほど成熟などしていなかった私ですが、『論語』には何ともいえぬ魅力を感じたのでした。
その『論語』と孔子をめぐる壮大かつ画期的な評伝が本書です。
金文や甲骨文の緻密な研究に基づく漢字学の大家・白川静氏によって明らかにされる、孔子の出自から生涯、「儒教の批判者」としての諸家の教義との関わり、『論語』の成立をめぐる原典批判。
孔子という人格と対峙しその思想を余すところなく理解しようという著者の執念すら感じられます。
孔子教団を呪術的に読み解く本書の内容は、後進に多大な影響を与えました。
諸星大二郎著『孔子暗黒伝』、酒見賢一著『陋巷に在り』などは本書から多くのインスピレーションを得ています。
③会田雄次『アーロン収容所』
教養課程の社会学の講義で紹介されて読み、滅法面白いと唸った記憶があります。
歴史学徒である著者が27歳で召集され、ビルマ(現ミャンマー)で終戦後英軍捕虜となり、収容所で体験した捕虜生活を綴った名著です。
強制労働をさせられる中で接した支配者たるイギリス人を中心に、ビルマ人やインド人、翻って日本人自身の姿を描いたエッセイなのですが、それが優れた比較文化論になっています。
英軍の女兵舎で、掃除をする日本兵の存在を完全に無視して、鏡の前で全裸になり髪を梳く女の姿。
捕虜生活の数少ない楽しみである演劇で複数の「演劇班」がその出し物を競い合う中、隙を見て英軍からあらゆるものを「泥棒」してきて衣装や舞台装置などを見事に作り上げる様子。
鮮やかな映像的描写と、もの悲しくも滑稽な筆致が魅力的な文章です。
極限的な状況においても楽観さを忘れず、冷静な眼で世界をしっかり見ることの大切さを学んだ一冊でした。
いずれも、若き日の知的好奇心を奮わせてくれた、忘れられない本です。
南口 真さん(ブックファースト新宿店にて)
宮崎市定