創作者たるためには、常に何かに怒っていなければならない
「事実は小説よりも奇なり」という言葉がある。これは歳を取ればとるほど、社会の裏側を知れば知るほど、実感としてよくわかってくる。
要は、「本当に起きたひどいことは、関係者への配慮を考えるとそのまま映像化するわけにはいかない」のである。
だから、寓話や作り話の「体裁」をとり、一見荒唐無稽な物語のワンシーンとして切り出す。そのことがよくわかるのは、スピルバーグの自伝的映画『フェイブルマンズ』である。
これはスピルバーグ自身の原体験をあまりにも赤裸々に語った映画のように見せている。スピルバーグがこれまでずっと明かさなかった家族の秘密を、全世界の観客に向けて開けっぴろげに告白しているように見える内容である。これすら、主人公一家の名前は「スピルバーグ」ではなく「フェイブルマン」という「寓話」の体裁をとっている。
スピルバーグのトラウマのような体験を描いたこの映画は、もしも「スピルバーグの自伝的映画」という前提がなければただただ不愉快なだけの映画にもなりかねない。主人公の少年をスピルバーグだと観客が考えて初めて意味を成す映画になっている。
数々の名作を分析すると、結局のところ名作と呼ばれる映画は、作り手のトラウマから生まれる。
『のぼうの城』や『シン・ゴジラ』の監督として知られる樋口真嗣は、「創作の源は怒りだ」とかつて僕に語ったことがある。
確かに、優れた作り手として知られる人は、なぜか皆、穏やかなイメージよりも怒り続けているというイメージが強い。
僕は長らく、創作者を間近で研究し、創作プロセスを観察している。僕自身、クリエイターとして作品作りに関わったこともある。すると、実はこれが本人の性格の問題ではなく、それこそが創作の源なのだということが解ってくる。むしろ創作者たるためには、常に何かに怒っていなければならないのだ。