檀一雄『美味放浪記』
子母澤寛『味覚極楽』
吉田健一『舌鼓ところどころ/私の食物誌』
檀一雄『美味放浪記』
人だかりのする立ち食い屋を見つけては、そこにまぎれ込んでいく。これが檀一雄の旅のスタイルだ。
金のある頃は一流ホテルに泊まり、タクシーで立派なレストランに乗り付けていたのが、そうでもなくなると地下鉄やバスで移動し、街をうろついて自分で楽しみを見つけるようになる。
その醍醐味が書かれるのが『美味放浪記』だ。本書は国内外での旨いものを求める遊歩をつづったエッセイ集である。たとえば北海道の釧路だと、ツブ貝を焼く屋台ほどいいものはなく、〈町角に立ち止って、坊やのわき、オカミさんのわきにまぎれ込み〉無心で食うのが愉快なのだという。
土地の人たちの馴染みの店は、その人たちの日常であり、生活でもある。そこに入り込んでいくことでその土地を味わうのだ。
大阪であれば、本書には「大黒」(かやく飯)や「たこ梅」(おでん)など、昔ながらの店について書かれている。けれども評者はこの8月、難波の「金龍」(ラーメン)に立ち食いの客がひしめき合っているのを見たおり、檀一雄が今の時代を生きていたら、案外、路面にむき出しのこの店で、彼らと肩を並べて汗だくになりながら麺をすすっているかもしれないと思いもした。
子母澤寛『味覚極楽』
続いては子母澤寛『味覚極楽』だ。これは昭和2年に新聞で連載された、伯爵など上流階級の人たちの聞き書きをまとめたもの。天ぷらは塩や柚子酢で食うより天つゆに限る、湯豆腐は生醤油をかけて食うのが旨い、鰻は白焼きより蒲焼だ、わざわざ座敷に運んでもらう会席料理よりも目の前で料理されたものをその場で食うもののほうが旨い......などと一様に大衆的な好みが語られる。
そんなふうに料理人がいるであろう御屋敷で暮らすエスタブリッシュメントたちが、食通が好みそうな食べ物、食べ方を次々と否定していくのが痛快である。
また著者は、東京の食べ物は気取ってばかりいるが、寿司や天ぷらは本来「下手味」(げてみ)なもので、それが旨いのだと言い、本書にも出てくる子爵・小笠原長生の父(大名であった)の逸話を紹介する。その人物は、イワシやサバといった青魚を好み、タイを出されると箸をつけることなく「大名の食うものでないうまい物」を食わせよと言い放ったという。
これは、吉田健一が落語「目黒のさんま」の殿様を嘲笑うことなく、肯定しているのに通じるところがある。下魚と称されるサンマだが、実際は旨く、しかも工夫を凝らした料理にするよりも、炭火で焼いて、焼き立てに醤油をかけて食うのがいちばん旨いのである。
吉田健一『舌鼓ところどころ/私の食物誌』
その吉田健一の中公文庫は、現在6冊が流通していて、そのうち3冊が食についてのエッセイ集だ。困ったことに全部いいのだけれども、無理やり1冊を選べば、くだんの落語の寸評を含む『舌鼓ところどころ/私の食物誌』である。
本書収録の「大阪のかやく飯」という随筆で、かやく飯と一緒に供される粕汁について吉田は、贅沢とは値段や外見などは関係のないものだと評し、こんな名文句を続ける。
現在の東京では贅沢という言葉が忘れられてその代りに豪華という言葉が使われている。
贅沢は、豪華と同じようなものだと思いがちだが、別物である。では贅沢とはなんだろうかと考えてしまうところだが、吉田の著書はもちろんのこと、ここに挙げた檀一雄『美味放浪記』や子母澤寛『味覚極楽』、いや食に関する数多の中公文庫は、そのことについて思索するための書籍に思えもする。
urbanseaさん