男装で罪人に――竹次郎こと、たけ
しかし、実は他でもない男装によって罪が重くなった人物がいる。
裁判記録『御仕置例類集』や古本屋の藤岡屋由蔵が街の噂を集めた『藤岡屋日記』に登場する竹次郎こと、たけである。
たけは1814(文化11)年に山王町(現銀座八丁目)の鳶〈とび〉の家に生まれるも、幼くして両親を亡くし親類に引き取られる。
一二、三歳で武蔵国八王子宿(現八王子市)の旅籠〈はたご〉屋に奉公に出されるが「女子の所業」を嫌って男子とばかり遊んでいた。
そのうち髪を切って男子の姿になると、主人に叱られたことをきっかけに奉公先を飛び出し、月代を剃って男姿になり竹次郎と名乗り始めた。
そして鳶をしたり煮売屋や蕎麦屋で働いたりしていたが、ある日、酒を飲んでいた男に女であることを見破られ、脅されて関係することとなった。
そして月が満ちて突然出産したことで周囲を驚かせたという(子供は死産)。
裁判記録『御仕置例類集』の方では、たけの罪状は盗み(帯、合羽など)、密通(詳細不明)、男装をして身分を偽って雇われたこと、奉公先からの逃亡、の四つとされている。
が、男装に関しては「素々心得違い之趣意」とされ、一定の理解を示されている。
結局たけは、女牢に五〇日入れられ、罪人の刺青を腕に入れられ、男装を禁じられた。
しかし、その後も男装を続け、五年後に再び逮捕された。
このときは揉め事のところに現れ「役人手先の躰」で(役人を装って)仲裁し、礼金を受け取ったことが罪に問われたが、「遠嶋」(流罪)という重い刑だった。
これに対し、近世女性史研究家の関民子は、たけは幕藩社会が要求する女性像を嫌って男装をし始めたが、妊娠や出産で女性としての自分を思い知らされたことでさらに男性への同化を選んだのではないか、また役人の手先のふりをして喧嘩の仲裁をしたのは、当時の江戸町人の理想像である侠気を身につけることで自己を貫こうとしたのではないかとも分析する。
とはいえ、お上から見ればそれは家父長制に対する反逆である。
当時、男装を禁じる法はないにもかかわらず、このような刑を言い渡されたたけは、見せしめの意味があったと考えられるのである。
さて、江戸後期にもすでに不穏な空気が立ち込める男装だが、明治に入り明確に男装を罪に問う法律が登場する。
それについては次回見ていこう。
参考文献
長島淳子『江戸の異性装者〈クロスドレッサー〉たち』(勉誠出版、2017年)
『江戸漢詩選3 女流』(岩波書店、1995年)
大田南畝「半日閑話」『日本随筆大成8』(吉川弘文館、1975年)
「兎園小説余録」関根正直、和田英松、田辺勝哉監修『日本随筆大成5』(吉川弘文館、1974年)
『藤岡屋日記 第1巻 文化元年〜天保七年』(三一書房、1987年)
関民子『江戸後期の女性たち』(亜紀書房、1980年)
関民子「日本史の中の女性たち(9)男装の無宿たけ 『女子の所業』を嫌った女」『女性のひろば 』(396)(日本共産党中央委員会、2012年)
関民子「日本史の中の女性たち(3)漢詩人・原采蘋ーー江戸時代にもとめた、新しい生き方」『女性のひろば』(384) (日本共産党中央委員会、2011年)
長島淳子「幕藩制社会における性規範ーー女性の男装をめぐってー」『総合女性史研究 = Annual reviews of women's history』(25)(総合女性史学会、2008年)
樋口政則「男装をとがめられた女の事」『歴史手帖』15(10)(168)(名著出版、1987年)
中村彰彦「歴史の交差点304 戦う女武者と男装の美剣士」『週刊ダイヤモンド』(88)(ダイヤモンド社、2000年)
稲垣史生編『武家編年事典』(青蛙房、1968年)
1970年、兵庫県芦屋市生まれ。エディトリアルデザイナーを経て、明治大正昭和期のカルチャーや教科書に載らない女性を研究、執筆。著書に『20世紀 破天荒セレブ:ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝:莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)がある。なお、2011年に『純粋個人雑誌 趣味と実益』を創刊、第七號まで既刊。また、唄のユニット「2525稼業」のメンバーとしてオリジナル曲のほか、明治大正昭和の俗謡や国内外の民謡などを演奏している。