「思想はもちろん私のものである」
渦中にあった時、「東京民報」には埴谷と小林の発言が載った。埴谷は『二つの同時代史』では、勝手に記事にされたと言っている。「不愉快なこと」と題された埴谷の〝署名原稿〟では、埴谷はこう書いている。
「私は小林秀雄を戦犯的追求[追及]の意味で、カーの著書について研究したのではなく、小林秀雄が好きだからこそやったのである。(略)近代文学で小林秀雄ファンは平野謙と私であるが、こういうことがあったとしても私が小林秀雄を尊敬することにおいてはいさゝかもかわりはない」(昭和23・2・4)
小林は小林で、その一ヶ月後の「東京民報」に、木寺黎二「「小林問題」管見(一)」という批判記事の脇に、「参考と思想」という囲みの談話記事が載った。こちらは短いので全文を以下に掲げる。
「『ドストイエフスキーの生活』を書いたときは、私は読めるだけの文献を読んだ。/カーの著書とヤルモリンスキイの著書は当時もっとも新しかったから文献上参考にしこれによるより仕方がなかった。しかし思想はもちろん私のものである。ヒョーセツなどゝいうことにはならぬし、こんなことを問題にするのはバカげている。(談)」(昭和23・3・4)
小林は、『ドストエフスキイの生活』の昭和二十四年の増刷分から、カーとヤルモリンスキイに負う処が多いと「付記」した。戦後の小林秀雄を待ち受けていた陥穽のひとつが、この「カー問題」だった。小林の気迫の「しゃべり」に若い小田切秀雄が圧倒されたから、質問は発せられなかった。「カー問題」は埴谷→花田清輝→ジャーナリズムへと「噂」となって流れ出ていったのだった。「戦犯的追及」とからみあいながら。