小林「武蔵」、単身「近代文学」へ乗り込む
小林はひとり敵地に乗り込む心境だったのではないか。本多は小林の歩みを、「一九世紀後半のフランス文学から、日本の中世古典へと歩んだ道は、ベルグソンから宮本武蔵への道といっていい」とまとめている。それに倣えば、小林「武蔵」は単身、一条寺下り松の決闘に乗り込むという図か。小林の気迫に同人たちはどう対したか。同人の中では若手の小田切秀雄は自伝『私の見た昭和の思想と文学の五十年』で、小林に「圧倒」されたと書いた。
「わたしなりに小林への敵意と敬服とのさまざまな経験をもってはいたが、戦争がはじまってしまえば黙って従うだけだ、というかれのやり方が、多くの知的な人びとや作家、とくに迷っていた鋭敏な人びとに強い影響を与え、戦争支持にふみ切らせることになったのを、文学者として許せないことに思っていた。(略)結局わたしとしては、小林のドストイエフスキイ把握にさしひびいているE・H・カーについて、まとめていえばどういうひとだと思うか、という問いから小林という存在の問題に入って行ければ行くということにした。/しかし、座談会の当日は、わたしはのっけから小林のあざやかなしゃべり方に圧倒された」
座談会初体験の小田切は、「すっかり呑まれてしま」う。やっと声を出して、ドストエフスキイとゴーリキーを持ち出すと、ゴーリキーは「二流品」だ、「二流という証明は誰にも出来ないが、そういう世界では証明なんかつまらんことだ」と小林から一蹴される。「簡単にいなされて」当初の質問は提出しそびれた。小田切は小林のしゃべりに舌を巻いたが、それでも「(といっても座談会速記録のかれの手入れはずいぶん徹底したものだったが)」と注している。埴谷雄高も、大岡昇平との対談『二つの同時代史』で、その点に触れている。