敗戦・占領の混乱の中で、小林は何を思考し、いかに動き始めたのか。
編集者としての活動や幅広い交友にも光を当て、批評の神様の戦後の出発点を探る。
いつも「読者」を意識していた小林
小林秀雄から絶大な信頼を得た清水崑だが、一度だけ、小林からやっつけられる。政治漫画ではなく、戦後の永井荷風ブームに群がる出版屋たちをヤジった漫画を載せた時だ。「読者がかりに十万あるとして、この漫画を分る読者はまず三千か五千だろう。それじゃ新聞は売れない。おまけに説明の文章も独り合点で主旨不鮮明。下手くそだ。もまれろ/\」。ちなみに「新夕刊」は一万部か二万部くらいだったようだが、小林は「読者」をいつも意識していた。
「文藝春秋」昭和二十一年(一九四六)八月号の榎本蔵人「新聞界を採点する」では、大新聞だけでなく、健闘する新興紙も三紙取り上げられている。「文芸と漫画を主軸」にする「新夕刊」はそのうちの一紙だ。
「新夕刊も高源社長が編輯に口を出したら紙面は悪くなる。口の代りに金を出すことだ。橋本八男に代った副社長永井龍男も新聞は雑誌のような訳に行かず、気苦労が絶えぬだろう。(略)新夕刊では横山フクチャンと田河ノラクロの努力もさることながら新進清水崑のあばれ方は物すごい。まだ舌足らずの感なきにしも非ずにせよ。岡本一平の塁に迫るものは崑だろう。が、いゝ気にならずに英国のロウの漫画やアメリカものなんかも研究したらよかろう」
清水崑はやがて朝日新聞に移る。人材供給所としての「新夕刊」の流出第一号となった。戦後の「ワンマン宰相」吉田茂のイメージを作ったのは、朝日に載った清水崑の諷刺漫画だった。それももとはと言えば「新夕刊」であり、「編輯者」小林秀雄の目に拠るところが大きい。「新夕刊」で清水崑の後に政治漫画を描くのは横山隆一の弟の横山泰三だった。横山隆一も続いて「新夕刊」を辞める決心をし、永井副社長に告げた。
「私は永井副社長の前に出て「ねえ、やめてもいい?」と切り出しました。「近頃は小林さんもちっとも来ないし、崑ちゃんはA社[朝日新聞]の、たっての望みで政界漫画へ乗り出すし、僕ぁつまんないんだもの」(横山『第二・でんすけ随筆』)