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「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(中)

【連載第七回】
平山周吉(ひらやま・しゅうきち)

「やまと新聞」から「東スポ」まで

 これから小林と高源の関係を見ていきたいのだが、その前に「新夕刊」前史をざっとさらっておこう。前身の「やまと新聞」は明治十九年(一八八六)に「警察新報」から改題され創刊された。文学史の上では、三遊亭円朝の「真景累ヶ淵」などの落語速記、泉鏡花の名作「婦系図(おんなけいず)」が掲載されたというのが大きい。大正時代のシーメンス事件では山本権兵衛内閣を追い詰めた。昭和に入ってからは国家社会主義者の高畠素之(もとゆき)が主幹だった時期もある。昭和七年(一九三二)からは右翼「大化会」の岩田富実夫(ふみお)の経営となる。昭和十八年(一九四三)に岩田が死ぬ。副社長の三浦義一(「室町将軍」)が病気療養中だったため、児玉が社長になった。児玉は「金はある。朝日を追い越す新聞をつくれ」と号令したというが、どこまで本気だったのか。戦後は、戦前に「やまと時代の政治部長であり、児玉機関の資産担当だった」高源を社長に据えた。高源―永井時代の後も「新夕刊」は幾変遷があり、現在の「東京スポーツ」(東スポ)は、その流れを汲んでいる(「新夕刊同人」1~5号)。

 小林と高源の接点は戦時下の中国大陸にある。江藤淳の評伝『小林秀雄』は、小林本人への取材をもとに、その時期を描いている。昭和十九年(一九四四)十一月に南京で第三回大東亜文学者大会が開かれた。その実現に小林は昭和十八年(一九四三)、十九年と奔走し、大陸にも渡り、長期間を過ごす。

「上海渡航当時の彼の資格は南京(汪精衛)政府の嘱託(?)といったようなものであり、日本領事館は彼の身辺の保護を拒否したという。だが、彼が嘱託であった南京政府側にも上海の治安を維持するだけの能力はなく、結局彼は当時児玉機関の根城になっていたブロードウェイ・マンションに伝手をたのんではいりこみ、毎日酒を飲んではごろごろしていた。彼が知らぬ間に右翼同士の勢力争いにまきこまれ、殺そうとして忍びこんで来た壮士が、寝顔のよさにうたれて思いとどまったという伝説が生まれたのはこの頃である。小林はこの伝説を肯定も否定もしていない。重要なことは、結局彼が児玉機関に第三回大会の資金負担を引き受けさせ、なおも大会開催に消極的な日本側の関係者を叱咤激励して、ついに「南京大会」を中日文化協会の主催で実現させてしまったということである」(江藤『小林秀雄』)。

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