「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(中)
「子どもみたいな感傷はよせ」
永井がまだ副社長だったというから、昭和二十二年の夏か、初秋か。この頃には、小林が社に顔を出すことが減っていたのは、このエピソードから感じられる。小林はやっと「新夕刊」から自由の身になれたのだろう。横山の『フクちゃん随筆』には、退社をめぐるもう一つのエピソードが書かれている。
「永井さんはなにも返事をしてくれなかったが、ちょっとやそっとでは引けないことがわかった。私の退社はまずいことに、社長の高源重吉氏のボルテージの高いときだったので、火花を散らすようになり、小林さんや永井さんに迷惑をかけた。/社長はこぶしをふるって涙をながした。小林さんが社長に、子供みたいな感傷はよせと、とりもってくれたので無事おさまった。あとは気持ちよくつきあってくれた」
具体的には語られないが、高源社長の怖ーい面がチラリと見える。それよりも、小林が高源を叱りつけるように説得する姿に二人の関係性が仄見えるといっていい。「新夕刊」の漫画家たち、田河水泡、清水崑、横山隆一の三人について、小林は後に『考へるヒント』の一篇「漫画」で描いた。
「「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ」/私は、一種の感動を受けて、目が覚める想いがした。(略)そして、又、恐らく「のらくろ」に動かされ、「のらくろ」に親愛の情を抱いた子供達は、みなその事を直覚していただろう。恐らく、迂闊だったのは私だけである。
そこで、言えるが、例えば「フクちゃん」は横山隆一自身であり、「かっぱ」は清水崑その人に違いない。まことに、はっきりした話だ。これは、芸術の上での、極めて高級な意味での自己の語り方であって、そういう観点から、「のらくろ」や「フクちゃん」や「かっぱ」を眺めると、気持ちのいい程、徹底した芸術家の仕事ぶりが見えて来る。小説の世界では、なかなか、こうさっぱりした事にはならない。(略)天賦という言葉は、現代では、言うも馬鹿々々しい理由から軽んじられているが、長い期間にわたって、世人を動かす、ああいう「主人公」達を創り出すのには、普通の意味の才能で、事が足りた筈がない。(略)本能的な良心に導かれて、自分ではどうにもならぬ天賦のなかで仕事をするに至るのであろう。めいめいが、自分の天賦のとりことなるのだ」