「新夕刊」創刊と、謎の社長「高源重吉」との関係(中)
高源、「毒舌の酔漢」小林に惚れこむ
自伝嫌いの小林はこの時期のことも書いていない。わずかに「蟹まんじゅう」(「あまカラ」昭和31・11)という食味随筆で回想する程度だ。「戦争中、支那でぶらぶらしている」時、河上徹太郎と二人で揚州まで饅頭を食いにいく話で、呑気なものだ。ただ、江藤の文章から、その時代には児玉機関の金脈と人脈につながっていたことは確かである。草柳大蔵は「最後の神様・小林秀雄」(「文藝春秋」昭和47・1)で、誰から取材をしたのかははっきりさせまいまま、江藤の評伝に肉付けしている。
「情報局は「勝手にしろ」と放り出したため、文士たちは児玉機関のルートで[第三回大東亜文学者大会の]南京開催に漕ぎつけた。/ところが、小林は児玉機関の連中と飲んでいるうち、領袖格の吉田彦太郎にからみはじめ、「おまえたちはケチな人間だ」と、例のとおり辛辣な舌鋒で切り刻んだ。これには吉田が本気になって怒り、「片腕くらいは貰いましょう」と、小林が泊っているブロードウェイ・マンションの十階の部屋を訪れた。/部屋が暗いので吉田がスイッチを入れたところ、小林はベッドの上で安らかな寝顔を見せている。しばらく小林の寝顔を見ていた吉田は、なにもせずに降りて来て、ある文士に「まるで仏さまのような顔をしている。ああいう男の腕は貰わないことにした」と語ったという」
この吉田彦太郎(戦後、裕彦と改名)は児玉機関のナンバーツーで、高源よりも上に位する。戦争中は、やまと新聞の副社長でもあった。小林が肯定も否定もしなかったのは、この件である。草柳のルポでは、続いて高源が登場する。
「このとき、酒席の舌鋒を聞いていた高源重吉が、小林にすっかり惚れこんでいる。高源は、戦後「新夕刊」の社長になったが、当時はやはり児玉機関の領袖の一人である。この高源がまた小林の生命を救っている。/南京政府[汪精衛政権]の要人・林伯生が文士たちと同行したときだ。汽車の中で一献かたむけると、小林はすっかり陽気になり、「おまえさんはいいヤツだよ。しっかりやるんだぞ、おまえ」と、林伯生の頭をしきりに撫でた。これが護衛の任にあたった将校たちの眼には、林の頭を叩いたと見えたらしい。密かに謀議して「小林を消そう」となった。「酔ったときに剃刀で頸動脈を切り、ホテルのバスに浸けておけば、自殺になるよ」という殺人計画が高源重吉や草野心平の耳に入った。高源はすぐに首謀者の許にいって「あの人は、日本にとってかけがえのない人だから、どうか手出しをしないで下さい」とたのんで、事なきをえたという」
毒舌の酔漢は東京の文壇界隈でならお馴染みだが、大陸では、この流儀はなかなか通用せず、生命の危機をたびたび経験したということか。それでも小林は自分のペースを変えることなく、酒を飲み、言いたいことを言い、したたか酔っ払った。この時期の日本では物資不足で、こんなに酔うことはなかなか難しかったろうから、小林にとって大陸は新天地だったのか。そこは何ともいえない。