昭和二十二年、最初の"復活戦"
「戦艦大和」発表の復活戦は、この後、昭和二十二、二十三、二十四年と毎年行われる。それらと小林秀雄は関係するか。昭和二十二年には、新潮社の文芸誌「新潮」十月号に「戦艦大和」が載る。編集長の斎藤十一は「編集後記」で、太宰治「斜陽」の連載完結を告げると共に、「戦艦大和」の作者を紹介している。
「「戦艦大和」の細川宗吉氏は、「大和」乗組員のうち、数少い生き残りの一人である。かつての軍国日本の最高の象徴としての「戦艦大和」の最期は、同時に軍国日本の最期でもあろう。ユニックなルポルタージュ文学であると同時に、敗戦日本国民にとっての貴重な記録でもあると信ずる。/なお、本稿は、紙数の関係で後部約三分の一ほど割愛せざるを得なかった。作者にお詫びすると同時に他日本誌に続稿を寄せられることを期待したい」
編集部の事情で「割愛」したのに、「続稿」を作者に求めるという変ちくりんな「編集後記」だ。検閲事情のために自由な編集ができないと、暗に告発しているのだろう。「新潮」で本文を読むと歴然だが、「細川宗吉」は吉田満のペンネームである。戦病死した義兄・細川宗平からつけた名前であった。「戦艦大和」は口語体に直され、検閲で指摘されそうな部分を省いて書かれている。川端康成・井伏鱒二・間宮茂輔編のアンソロジー『日本小説代表作全集17』(昭和24)に収録されたから、一定の評価はあったのだろう。斎藤十一の「敗戦日本国民にとっての貴重な記録」には、小林が吉田満に言った「敗戦の収穫」と通じるものがある。「新潮」は翌年十二月号に吉田満のエッセイ「死・愛・信仰」を載せる。斎藤十一は「編集後記」で「吉田満君は、昨年十月の本誌に「戦艦大和」を書いた人。最も熾烈な戦闘を体験した若き魂のその後の記録である」と、身もふたもなく本名を明かした。